盟では、農民文学に対する委員会、児童文学に対する委員会、青年の文学的創造力を指導するための委員会、朝鮮、台湾等の植民地の文学を、それぞれの民族文化との関係に於ける独自的発達を支持するための委員会が組織された。私はこの婦人委員会の責任者となった。
これらの委員会が組織されたことはプロレタリア文学運動が日本文学の歴史の中ではじめて労働者とともに、婦人、児童、農民、植民地の人々等の文化上の存在権を確認した出来ごとであった。私はこれらの委員会の重要な本質を理解することができた。しかし、婦人委員会の活動を広汎に活溌に具体的に指導してゆくことは、私の当時の経験では困難なことであった。しかし婦人委員会ができてから小説、詩の分野で若い作家詩人がいくつかの仕事を発表するようになった。『女人芸術』その他協同主催の文芸講演会などでは、特に婦人委員会の社会的文学的意味が理解され、文学を愛する婦人のための激励となった。
十月。「全日本無産者芸術団体協議会」は芸術団体の他に科学者、哲学者、教育者、社会医学関係の団体をも包括する「日本プロレタリア文化連盟」となった。満州事変と云われた日本帝国主義の満州侵略戦争がはじまり、日本の専政権力に反対するプロレタリアは、世界の国々の反ファシズム運動と結合しようとした。日本プロレタリア文化連盟の結成もこの角度から重要な意味をもった。作家同盟も団体加入した。各参加団体の中に組織されていた各委員会が協議会を持ち、婦人協議会の責任者となった。日本プロレタリア文化連盟からは、参加団体それぞれの機関紙の他に、「プロレタリア文化」が発刊された。この月党の組織と結合した。
十一月。婦人協議会から勤労婦人のための雑誌刊行が計画された。勤労階級の婦人のための雑誌としては、これまで『戦旗』があり『婦人戦旗』が発刊されはじめていたが、それをやめて『働く婦人』が発刊されることになった。これは婦人協議会から編輯部を構成して各団体が独特な能力で編輯に協力してゆくやり方であった。この『働く婦人』の編輯責任者となった。作家が雑誌の編輯事務にたずさわるということは、当時の私として苦痛なことであった。けれども階級的な作家の一つの経験であると思って翌年一月の創刊号から三月号まで編輯した。それ以後は佐多稲子が責任者となった。即ち四月に私が検挙されたことが責任者の交替をもたらしたのであった。この年は
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