町署に検挙されている宮本顕治の奪還計画というものが新聞に公表された。二三日たって私が検挙された。
二月。作家同盟解散。
六月。一月以来駒込署、小松川署、杉並署、淀橋署と移されていたが、六月十三日、母危篤のため急に帰された。肺壊疽をわずらって順天堂病院に入院していた母は、私が病院にかけつけて十五分ののちに死去した。私は半年の留置場生活で健康を害して、心臓衰弱に苦しんだ。この年はプロレタリア芸術家の転向の問題が注目をひいた。村山知義の「白夜」その他、運動と個性の分裂をモメントとして権力に屈したインテリゲンチャの告白がいくつもの小説となってあらわれた。治安維持法そのものの非人道性をとりあげた作品はなかった。これはどういう形で日本のインテリゲンチャ及び勤労者が、その時以来ひきつづき一九四五年まで治安維持法にいためつけられつづけたかということを理解するための歴史的な鍵である。これらの問題についていくつかの文学評論、批評を執筆した。
執筆
一月。小説「鏡餅」(新潮)
八月。鈍根録(改造)
十月。ツルゲーネフの生きかた。(文〔化〕集団)
十一月。夫婦が作家である場合。(社会時評)
十二月。バルザックに対する評価。
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一九三五年(昭和十年)
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〔前年十一〕月。淀橋区上落合の家に引越した。〔同十二月初〕旬、夕刊で宮本が市ヶ谷刑務所に送られたことを知った。大急ぎで綿入を縫って面会差入れした。一年の警察生活で宮本は白紙のまま起訴された。一週間に一遍ずつ市ヶ谷に面会にゆくことが日課になった。宮本がともかく警察で殺されないで市ヶ谷に行ったということは私を大変安心させた。小説の書ける気持になった。小説「乳房」を中央公論に発表した。(〔四〕月)この小説は後にソヴェトで革命文学の文集に集録された。
五月〔中〕旬、前年の母の死によって中絶した取調べの続きだといって淀橋署に検挙された。
十月。「日本共産党の外郭団体であるプロレタリア作家同盟の活動に従事し、共産主義を宣伝した」という理由によって起訴された。市ヶ谷刑務所におくられた。
執筆
この時、評論集『冬を越す蕾』が入獄中に出版された。
一月。「バルザックから何を学ぶか」を『古典の再認識』のために執筆。作家は何でも書けばそれが現実を反映するというリアリズム論への反駁として。
一月。不満と
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