う小林の家から何人かの婦人が検束されて来ていて、入れる場所がないということで帰された。
〔『大衆の友』号外〕小林多喜二特輯号を編輯した。
十二月〔二十六〕日。宮本顕治は九段上でスパイのため売り渡され、検挙された。スパイは当時日本共産党東京地方に活動していた渾名亀こと高橋であった。
一九三三年は文学的には殆ど活動不可能の状態であった。左翼に対する弾圧は、ジャーナリズムの上にプロレタリア作家の活動する余地を与えなかったし、私個人の生活事情から言っても落ち着いた日は一日もなかった。プロレタリア作家同盟が解散しようとする前で、指導的な中央委員の間に激しい意見の対立を生んでいた。ごうごうとして蔵原惟人、小林多喜二、宮本顕治などの文化、文学運動の指導上の欠点として「政治主義」が批判され、山田清三郎、林房雄その他の人々がプロレタリア作家同盟を壊滅させるために精力的に働いた。
ソヴェト同盟が第一次五ヵ年計画を完成してその過程でインテリゲンチャ、技師、学者等従来プロレタリア階級の発展に対していくらか距離をもっていた社会的分子を完全にプロレタリアの社会的達成の協力者とすることができた。この現実に立ってソヴェトではプロレタリアの作家同盟が解散され、同伴者作家、農民作家等のグループを広汎に統一した全ソ作家同盟が組織された。そして社会主義的リアリズムの創作方法が提唱された。日本ではこの社会主義的リアリズムの創作方法に対する解釈を、全く芸術における階級性の抹殺という方向で行った。そして日本のプロレタリア文化、文学運動の「政治主義」を批判する口実とした。
社会主義的リアリズムのこのように歪曲された解釈は、一般にさまざまな形でのリアリズム論争をまき起した。武田麟太郎の風俗描写的リアリズムをそのはじめとして。――すべてのリアリズム論争の特徴は、階級性の抹殺であった。佐多稲子、江口渙、私等は以上のような「自己批判」に納得できず、作家同盟の常任委員会で常に当時の書記長その他の見解に不一致であった。しかし理論的に未熟であり、運動に経験のないために客観的には明瞭に誤っている結論に従うほかなかった。
執筆
一月。一連の非プロレタリア的作品。
八月。「マクシム・ゴーリキイの人及び芸術」小説「小祝の一家」(文芸)
[#ここで字下げ終わり]
一九三四年(昭和九年)
[#ここから1字下げ]
一月。中旬に麹
前へ
次へ
全20ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング