活の断片をも知っている正一が、現在ここにありもしないものになまじっか心をひかれるのが厭で、ジャズなんかききたがらないのだったとしたら――。
 おさやが茶がわりに飲むハブ茶を七輪のおきにかけながら、お縫は、はっきりと一つの笑い顔を思い出した。それは正一が除隊になってかえって来て、組合が祝の酒盛をした時のことであった。重蔵なども先に立って、お縫の耳にきき苦しいような冗談を云っては正一の嫁とり話が出た。正一はうすら赧い顔をして笑っていたが、それは決してうれしい笑いでも、極りがわるいだけの笑いでもなかった。そして、しまいには、何かに楯ついているようにむっと、
「もうええ、もうええ、わしは二十六まで嫁はとらん!」
と云った。庄平の家の負債のことは村じゅうが知っていた。この家の下の土地が自分のものでないことも分っている。正一が中学を中途迄しか行けなかったこともしれている。正一がトラックを運転している姿を見るとき村の人々はそのことを思い出したとしても、感心な、と云うであろう。だが、あなたの娘をやりなされと云われれば、それらのことは、全く別様の条件となって思い出されて来るのである。
 お縫の姉のおたみ
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