ながら、彼女の持っているあらゆる侮蔑を何の隠すとてもなく現わしても、不思議に思う者はない。
 家柄は禰宜様――神主――でも彼はもうからきし埒《らち》がないという意味で、禰宜様宮田という綽名《あだな》がついているのである。
 人中にいると、禰宜様宮田の「俺」はいつもいつも心の奥の方に逃げ込んでしまって、何を考えても云おうとしても決して「俺の考」とか「俺が云ったら」というものは出て来ない。けれども、野良だの、釣だのに出て来て、こういう風に落付くと、彼はようやっと「俺」をとり戻す。
 そして、だんだん心は広々と豊かになって、彼のほんとの命が栄え出すのであった。
 今も長閑《のどか》な心持であたりの様子を眺めているうちに、禰宜様宮田の心は、次第に厚みのある快さで一杯になって来るのを感じた。
 そして、平らかな閑寂なその表面に、折々|雫《しずく》のようにポツリポツリと、家内の者達のことだの、自分のことだのが落ちて来ては、やがてスーと波紋を描いてどこかへ消えて行ってしまう。
 沼で一番の深みだといわれている三本松の下に、これも釣をしているらしい小さい人影を見るともなく見守りながら、意識の端々がほんのりと霞んだような状態に入って行ったのである。
 それからやや暫く立ってから、彼はフトもとの心持に戻った。どのくらい時が過ぎたか分らない。
 禰宜様宮田は、ついうっかりしていた竿を上げてみた。餌ばかりさらわれて、虫けら一匹かかってはいない針が、きまり悪そうに瞬きながら上って来た。
 彼はもう何だか、わざわざ切角こうやって生きている蚯蚓《みみず》の命まで奪って僅かばかりの小魚を釣るにも及ばないような心持になって、草の上に針を投げ出すと、そのまま煙草をふかし始めた。
 さっきまでは居る影さえしなかった鳶《とんび》が、いつの間にかすぐ目の前で五六度|圏《わ》を描いて舞ったかと思うと、サッと傍の葦間へ下りてしまう。
 キ……キッキ……
 微かな声が聞えて来る。
「はて、小鳥でもはあ狙われたけえ……」
 葦叢《あしむら》をのぞき込むようにして膝行《いざり》出た禰宜様宮田の目には、フト遠い、ズーッと遙かな水の上に、何だか奇妙なものがあがいているのが写った。
 鳥でもないし、木片でもない。
「今《えま》時分人でもあんめえし……」
 浮藻に波の影が差しているのだろうと思って見ると、そう見えないこともな
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