ていた彼は、やがてちょっと目を瞑《つぶ》るとほとんど聞きとれないほどのつぶやきで、
「……俺ら……俺らすんだら……」
と、云うや否や押しかぶせるように、
「何? 承知する?
ああそれでようよう埒が明くというもんだ、さあ、そんならこれにちょっと印を貰いましょうか」
番頭は、包みのうちから何か印刷したものを出して、禰宜様宮田の前に置いた。
取り上げては見たが、どうしても読めない。
字の画が散り散りばらばらになって意味をなさないのを、番頭に助けられながらそれが小作証書であるのを知ったときには、もう一層の絶望が彼の心を打った。
が、もう何ということもない。
二度も三度も間違えながら筆の先をつかえさせて名前を書き入れると、彼は黙々として印を押した。
四
その田地――禰宜様宮田が実に感謝すべき御褒美として、海老屋から押しつけられた――は、小高い丘と丘との間に狭苦しく挾みこまれて、日当りの悪い全くの荒地というほか、どこにも富饒な稲の床となり得るらしい形勢さえも認められないほどのところであった。
破産までさせられて、自棄《やけ》になった彼の前の小作人が半ば復讐的に荒して行ったのだともいう、石っころだらけの、どこからどう水を引いたらいいのかも分らないように、孤立している田地を見たとき、禰宜様宮田は思わず溜息を洩した。
いったいどこから手を付ければ、こんなにも瘠せきった原っぱのような田地を、少くとも人並みのものに出来るのだろう……。
けれども、もうこうなっては否でも応でも収穫を得なければ大変になる。
全く強制的に彼は朝起きるとから日が落ちるまで、土龍《もぐら》のように働かなければならなかったのである。
禰宜様宮田は、ほんとに体の骨が曲ってしまうほど耕しもし、血の出るような工面をして、たくさんの肥料もかけてみた。寸刻の緩みもなく、この上ない努力をしつづける彼の心に対しても、よくあるべきはずの結果は、時はずれの長雨でめちゃめちゃにされた。
稲の大半は青立ちになってしまったのである。
どうしても負けてもらわなければ仕方がなくなった禰宜様宮田は、年貢納めの数日前、全く冷汗をかきながら海老屋へ出かけて行く決心をした。
小作をして、おきまり通りちゃんちゃん納められるものが、十人の中で幾人いる、何も恥かしいことじゃあない、平気でごぜ、平気でごぜ。尋常
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