ないという単独な情でもなければ、偕《とも》に死ぬべきであるという倫理的な判断でもない。まして、この瞬間に、生と死とを選択して、英雄的最後を選ぼうとするような心はない。ただ、彼女の全霊が、真赤な火の玉のようになって燃え上った生の執着の偉大なる共鳴である。二つの箇体が、一つの生命になっていた。一つの生命の前にあらゆる空間が絶していた。二つの体躯を貫通して反響があったばかりである。彼の心には、死という文字の存在を許す、いかほど些細な間隙もなかった。あくまでも生である。何といったって生きてやるぞ! という真っ暗な絶叫である。死んでも生きて見せるぞ! という執念である。ひたすらの執念である。あの寸刻前の恍惚は? あの幸福な夢幻は? 運命は、運命は……。そんなことがあって堪るもんか。彼は、生命全部の緊張をただ一点に集中して“No! sir”と叫んだのである。何に? もちろん死である。体中でふるえながら、二人の周囲を駈けまわって、叫んだり、呟いたり、躓《つまず》いたりしていた猫背の男は、Wが“No! sir”と叫んで、マージーの上に重るように地上に横ったのを見るや否や、殺されるような悲鳴を挙げて、走
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