子は人っ子一人いない雪の中に佇んで暫くあちこち見ていたが、渡殿とは反対の方角に歩き出した。やがて、見晴し亭と朱で電燈の丸火屋に書いた奉納燈があり、同じ文字の横看板をかかげた格子戸が向うに見えた。藍子は「婦系図」の、やはり湯島天神境内の場面を思い出し、自分の書生っぽ姿を思い合わせ、ひとり笑いを浮べた。
 格子をあけると、十八九の束髪に結った女が出て来た。
「こちらに大塚おいねさんて方おいでですか」
 女は怪訝《けげん》そうに藍子の女学生風な合羽姿を見上げながら曖昧に、
「さあ」
と答えた。
「ついこの頃新しく来なすった人あるでしょう? そのかたに尾世川さんのことで来たって、ちょっと呼んでくれませんか」
 銀杏《いちょう》返しに結った平顔の、二十五六の女が変な顔をして出て来た。疑わしげに、女は藍子を上下に見ながら、
「どんな御用なんでしょう」
と云った。
「尾世川さんのことで上ったんですが、おいそがしくなかったらちょっとお話したいと思って……」
「あ、そう……じゃどうぞこちらへ」
 女は先に立って、廊下のつき当りの小間をあけかけたがそこはそのままにして、次の間へ藍子を入れた。
「ちょいと御
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