う」
 藍子は、ハガキの住所と女の名を、小さい手帳に写しとった。

        二

 翌朝、藍子が寝床の上で目を醒した時、四辺《あたり》はいつになく森としていた。
 どこか、ただの静けさとちがっていた。藍子は起きて、窓の雨戸を繰り開けた。
 外は雪であった。夜じゅう相当に積った上へ時々明るく雪片が舞い下りている。
 三月で、近くの地面の底にも、遠くの方に見える護国寺の森の梢にも春が感じられる、そこへ柔かく降り積む白雪で、早春のすがすがしさが冷気となってたちのぼるような景色であった。
 藍子は、朝飯をすますと直ぐ、合羽足駄に身をかためて家を出た。偶然の雪が却って彼女に興を与えた。生来雪好きの藍子は電車の上り口に、誰かの足駄から落ちた一かたまりの雪が、ほんの僅か白くあとは泥に滲んで落ちているのにまで新鮮な印象を受けた。
 本郷区役所前で電車を降り、右へ折れて、藍子は湯島天神の境内に入って行った。大鳥居から拝殿へ行く石畳みの上へ一条雪掻きでつけた道がある。本殿から社務所のようなところへ架けた渡殿の下だけ雪がなく、黒土があらわれ、立木の間から、彼方に広い眺望のあることが感じられた。
 藍
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