て笑った。尾世川も思わず釣られて破顔したが、
「いや、決してそう云う訳じゃないんです」
と、彼は持前の、唾のたまり易い口を突き出すようにして弁解した。
「五月蠅《うるさ》いですからね」
 藍子は悪意のない皮肉で心持大きい口を歪め、美しい笑いを洩した。五月蠅いのが嫌いな尾世川であろうか! 彼が生れた日の星座がそうだとでもいうのか、五月蠅い[#「五月蠅い」に傍点]ことのためばかりに、彼は弟子の藍子に頭が上らないほど身をつめ、しかも欣々然と我が世の重荷を背負っているではないか。
 自ら尾世川の心にも漠然とした感慨が湧いて来たらしく、彼は暫く黙り込んで、自分の鼻から出る朝日の煙を眺めていたが、
「――そろそろ始めましょうか」
 吸殻を、灰の堅い火鉢の隅へねじ込んだ。尾世川のところにはたった一つ、剥げかけた一閑張の小机があるかぎりであった。彼は立って、それを室の真中へ持ち出した。

「あ、ちょっと。そこには冠詞がいりますね」
「――DER?」
「そうです。――ではこの文句をすっかり裏から云ったらどうなります。――彼が植物園へ行くことをしなかったなら、こうであったろうと云う風に……」
 稽古も終り
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