まって云った。
「稲毛にしましょう。――それともおいやですか」
日がえり出来る処となると陳腐な場所しかなく、彼等は稲毛に決め、そこ迄二等の切符を買った。
「では……と。まだ二十分もありますね」
尾世川は売店に行き、いつもの朝日ではなく、今日は金口のアルマを買った。彼は藍子のかけている待合室のベンチの腕木にちょっと斜かいに腰かけ、片肱にステッキをかけ、派手な箱から一本その金口をぬき、さも旅立ちの前らしい面持ちで四辺を眺めながら火をつけた。
尾世川は数日前にやっと、不二子を九州の夫のところへ向けて立たせたばかりであった。不二子に限らず、女と生活している間、彼は暮しに追われて、大森までも遊山に出かける余裕がなかった。生活費の心配がなければ、藍子が見晴し亭で会ったいねのように、ただ彼女に会い可愛がる為ばかりにでも、彼は金を使わなければならない。まして、不二子は、親戚が同じ東京にあった。その中で彼と一月も暮したのだから、尾世川は夜の散歩もゆっくり出来ない。さすがの彼も、一息新鮮で闊《ひろ》い空気が欲しい生活をして来たのであった。
今こそ、尾世川は汽車の窓からその空気を完全に吸い込んでいる
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