みや名家選集をもって、藍子は二年の間尾世川に教えて貰ったと云うより寧ろ教えさせて来たのであった。
三月の第一火曜日の午後、藍子は小日向町へ出かけて行った。尾世川が牛込の方から此方へ越して来てから、藍子も、同じ小石川の向う側の高台へ部屋を見つけたのであった。鼠坂を登って、右へ曲る。煙草屋の二階に尾世川は暮していた。
「今日は」
「おや、こんにちは」
丸髷に結った神さんが、狭い店先の奥から顔をもたげた。笑った彼女の口元からちらりと金歯の光ったのや、硝子《ガラス》ケースの中にパイプや葉巻の箱を輝やかせている日光が、いかにも春めいた感じを藍子に与えた。
「おいでですか?」
「ええ、今日はいらっしゃいますよ、さあどうぞ」
店の横にある二畳から真直|階子《はしご》を登ろうとすると、神さんは、
「ちょいと、三島さん」
変に潜めた声で藍子を呼び止めた。
「なんです」
黙って眼と手でおいでおいでをしながら自分も立って来た。
「お客さまなんですよ」
藍子は、何事かと思った顔をゆるめ、駄々っ子らしく、
「なあーんだ」
と云い、本包みとショールをそこへ置いた。
「何かと思っちゃった」
神さんは
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