詮吉さん」
「偶然さ、君が余り余念なく見ているんで一寸面白いなと思ったもんだから。――でも感じ出ているでしょう」
「うまいことよ、この位なら物になるかもしれないわ」
 詮吉は日本橋の方に商人暮しをしているのだが、絵でも習いたい、そういう趣味の幾分かある若者なのであった。
 三階は、湯治客のすいている時なので空部屋が多い。静かな廊下を、二人はスケッチをもって、総子のいる方へ戻った。
「長い大神楽だね」
「その代りこんな傑作が出来た」
「見て呉れ、よう。じゃない?」
 吉右衛門の河内山の癖をもじって、皆、スケッチをそっちのけに笑った。
 詮吉が散歩に出たいと云う、総子は風があるから厭だと云う。結局なほ子と詮吉とだけ出かけることになった。

 詮吉は軽そうなセルに着換え、ステッキを下げて出て来た。
「この位風があれば殺生石も大丈夫だろう。一つ見て来よう」
「お総さん、見ずじまいになっちゃうわ」
「いいさ、我まま云って来ないんだもの、来たけりゃ一人で来ればいい」
 なほ子は先に立って、先刻《さっき》大神楽をやっていた店の前から、細いだらだら坂を下った。
「道、分ってるの」
「ええ」
 夏の準備
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