丈夫、しっかりおし」という母の言葉を、殆ど冒険的に信じていたのである。
 いよいよ入学試験の日が来た。三月三日でお雛祭の日だのに雨まじりの小雪さえ降り、寒い陰気な日であった。何でも、まだ電気の燈いている時分に起き、厚い着物に蝶模様の羽織を着、前夜から揃えてあった鉛筆や定木、半紙の入った包みを持って出かけた。俥に乗り、前ばかりを見つめて大学の横から、順天堂の近くへ連れられて行ったのである。
 小さな小学校の建物ばかりを見なれた眼には、気が臆すほど壮大な大玄関で降ろされると、周囲の大混雑に驚かされた。見れば、みな先生だのお母さん、姉さんなどがついて来ている。自分だけはたった一人で、まるでどうしていいのか判らないのである。ここへ先生が出て来て親切に待合室へ七十二という札を持たせてつれて行って下さった。
 ストーブの暖い、上の水皿から湯気のぼうぼう立つまわりに、大勢成人や自分くらいの人々がい、独りぼっちで入って来た自分を驚いたように見る。――自分が試験されるのだから、母などは、ついて来るものとも思っていなかったのである。が、この光景を見ると、自分は急に心淋しくなった。そして一そう成人ぶった顔も
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