であるなどとはまるで思わず、まるで一人前で、心が明るくなったり、暗くなったりするのです。
算術では、血眼になっても程度が知れている。国語で一つの間違いでもすまい、というのが私の心算《つもり》であった。父が、綺麗な西洋紙の、大きな帳面をくれたことがある。私はそれに赤や紺や紫や、買い集められただけの色インクで、びっしりと書取りをして行った。大判の頁、一枚ときめ、椽側で日向ぼっこをしながらちょうど時候にすればいま時分、とつとつと書きつめるのである。
一枚、一枚を使うインクの色をちがえ、バラバラと指で翻し、さも学者らしく一杯ならんだ文字を見ると、自分は楽しさで、来ようとする試験の怖さも忘れた。今でも頭にあることは、書く字の要点に非常な注意と、成人の心持とを見通したことだ。例えば、巳《み》という字と己《おのれ》という字との違い、これなどは紛れやすいから、きっとこんなのを試験に出すのだろう、よく覚えて置こう、と思うのである。
そんなことを考えながらも、若しあの学校が駄目なら、外に何処もあてにするというようなことはまるで思っても見なかった。
両親が定め、手続をして呉れ、「きっと入れるから、大
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