だから。――じゃ失敬。折角寝たところを起してすみませんでした」
 元気よく外へ出かけて、大谷は、
「ホウ」
 敷居をまたぎかけたなり、ひろ子の方へ首を廻らして、
「もうこんなだよ」
 フーと夜気に向って白く息を吐いて見せた。夜霧に溶けた月光は、さっきより一層静かに濃く、寒さをまして重たそうに見えた。そこを劈《つんざ》いて一筋サッとこちらからの電燈の光が走っている。ひろ子は雨戸に手をかけた姿で、身ぶるいした。
「――重吉さんから手紙来るか?」
「もう二週間ばかり来ないわ――どうしたのかしら」
「戦争からこっちまたなかの条件がわるくなったんだナ。――会ったらよろしく云って下さい」
「ええ。ありがとう」
 ひろ子はつよく合点した。そして、良人の深川重吉の古い親友であり、現在の彼女にとっては指導的な立場にいる大谷の戛々《かつかつ》と鳴る下駄の音が、溝板を渡るのをきき澄してから、戸締りをして、二階へ戻った。

        二

 横丁を曲ると、羽目に寄せて、ズラリと自転車が並んでいるのが目についた。夫々《それぞれ》うしろに一寸した包をくくりつけたままで、斜かいに頭を揃えて置いてあるのだが、その一台には、つつじの小鉢が古い真田紐《さなだひも》で念入りにからげつけてあった。
 青葱《あおねぎ》の葉などが落ちている朝の往来をそっちに向って近づきながら、ひろ子は或る言葉を思い出した。その国の労働者の生活状態はその国の労働人口に比例して何台自転車をもっているかということで分る、多分そんな文句であった。今目の前に市電の連中の自転車は二十台以上も並んではいたが、スポークがキラキラしているような新しいのは唯の一台もなかった。
 ガラス戸が四枚たつ入口のところへ、三々五々黙りがちに従業員がやって来ていた。入口のすぐ手前のところで立ち停ってバットの最後の一ふかしを唇を火傷《やけど》しそうな手つきで吸って、自棄《やけ》にその殼を地べたへたたきつけてから入るのがある。どっかりと上り框《がまち》に外套の裾をひろげて腰をおろし高く片脚ずつ持ち上げて、いそぎもせず靴の紐を解いているのがある。
 ひろ子は足許の靴をよけて爪立つようにしながら、
「あの、山岸さん見えていましょうか」
 上り端の長四畳のテーブルにかたまっている連中に声をかけた。黒い外套の背中を見せてあちら向に肱を突いていたのが、向きかえり、
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