乳房
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)縋《すが》り

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)時々|舐《な》めながら

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)子供のものもらい[#「ものもらい」に傍点]のことが
−−

        一

 何か物音がする……何か音がしている……目ざめかけた意識をそこへ力の限り縋《すが》りかけて、ひろ子はくたびれた深い眠りの底から段々苦しく浮きあがって来た。
 真暗闇の中に目をあけたが頭のうしろが痺《しび》れたようで、仰向きに寝た枕ごと体が急にグルリと一廻転したような気がした。寝馴れた自分の部屋の中だのに、ひろ子は自分の頭がどっちを向いているか、突嗟《とっさ》にはっきりしなかった。
 眼をあけたまま耳を澄していると、音がしたのは夢ではなかった。時々猫がトタンの庇《ひさし》の上を歩いて大きい音を立てることがある、それとも違う、低い力のこもった物音が階下の台所のあたりでしている。
 ひろ子は音を立てず布団を撥《は》ねのけ、裾の方にかけてある羽織へ手をとおしながら立ち上った。染絣《そめがすり》の夜着の袖が重なるぐらいのところに、もう一人の同僚の保姆タミノが寝ている。足さぐりで部屋の外へ出ようとして、ひろ子は思わずよろけた。
「なに?……あかりつけようか?」
 タミノは半醒の若々しい眠さで舌の縺《もつ》れるような声である。
「……待って……」
 泥棒とも思えなかったが、ひろ子の気はゆるまなかった。九月に市電の争議がはじまってから、この託児所も応援に参加し、古参の沢崎キンがつれて行かれてからは時ならぬ時に私服が来た。何だ、返事がないから、空巣かと思ったよなどと、ぬけぬけ上り込まれてはかなわない。ひろ子にはまた別の不安もあった。家賃滞納で家主との間に悶着が起っていた。御嶽山お百草。そういう看板の横へ近頃新しく忠誠会第二支部という看板を下げた藤井は、こまかい家作をこの辺に持っていて、滞納のとれる見込みなしと見ると、ごろつきを雇って殴りこみをさせるので評判であった。脅《おど》しでなく、本当に畳をはいで、借家人をたたき出した。
 四五日前にもその藤井がここへやって来た。藤井は角刈の素頭で、まがいもののラッコの衿をつけたインバネスの片袖を肩へはねあげ、糸目のたった襦子
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