生活は死に等し
格言として書かれて居、世間の人達は格言と見、云ったその人自身も名言だと思ったんだろう。
けれ共私にはこの言葉に対する不平がある。
死と云うものは不義の生活に比べられ、等しいと思われるほど注意のあさいものではない。
最も高尚な高潔な生活の極点が死である事は「すべての欲望の極の欲望は死である」と云ったトルストイの言葉でもわかるのだ。
七月八日(水曜)
大変朝早くこの頃は学校に行く。
重いさびた色の煉瓦の建物の下の石に腰をかけてトルストイの或る作を読む。うす明るいもやがかこんで居る。まだつゆのある短かい草の根元や大きな礎の石の間にささやかな虫のつぶやきの声がする。
嬉しい寂寞《じゃくまく》の裡に私の心は清んだのである。
夜も美くしい声の虫が一匹、草の間でないて居る。
さしぐまれる様な気持になった。
七月十七日(金曜)
細井さんの小わきで墓穴をほって居る男の群達を見た。美くしかった娘の腕も健に育ちかけた青年の頭蓋も出されるんだろう。がいこつの目の玉のあとから飛び出すふしぎな霊がその男達のぼろぼろの裾にまつわりつく。
熱が出て寒気がした。墓穴の連想
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