だて」と彼は思ったのである。孝之進は、「いいえそんなことは、ちょっともありません」という返事を聞きたいばかりに、「それでも何か注意すべきことがあれば」聞かして欲しいと折返して頼んだ。そして、全く彼の心を動顛させる事実として、浩が文学を勉強していること、庸之助とつき合っていることを聞かされたのであった。孝之進は、取締りの云うことは一々もっともだと思った。この順で行けば鰻上りに出世して、近い内には社会に枢要な位置を得る人物――直接政府の官省から、招待状などの来るような者――になれるだろうと思っていた彼の希望は、根柢から覆がえってしまったように感じた。彼の目の前には、はてもないガラン洞の口がいきなり開いた。体中の力が、毛穴から一時に抜けてしまったようで、孝之進は、暫く何とも云えなかった。だんだん心が落付いて来るにつれて、自分の愛しているものが、自分の苦労も知らずに勝手気儘にふるまっているのを見る失望が、やがては憎いというような感情に変じて来た。その非常に複雑な激情に血を湧き立たせながら、彼は浩を自分のところへ呼んでもらった。「戯作者。罪人の息子。この馬鹿奴!」断片的に、単語が頭の中に浮いたり
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