立てて電話が鳴った。彼は頭を上げた。
「誰かいないかな?」目で捜《たず》ねたけれど、自分を措いて誰も見えないので、浩はいつもの癖通り左の耳に受話機を取りあげた。
「モシ、モシ、あなたはK商店ですか?」
 太い声が、最初のモシ、モシと云うのに、非常に抑揚をつけ、区切りを切って呼びかけた。Sという大きな会社の庶務から、取締りに出て欲しいと云うのであった。Sというのは、平常店とはほとんど関係のない会社なので、解せない顔をして出て行った取締りは、かなり長く何か話していたが、やがて帰りしなに浩の傍を通りながら、「杵築のことを訊いて来たよ」と一口云って、そのまま行ってしまった。
「杵築のこと?」あまりいきなりだったので訳の分らなかった浩は、暫く考えているうちに、就職のことについて問い合わせがあったのだということが解った。
「就職? それじゃあ東京に出て来たと見えるなあ。Sの事務に入ろうとしているのだ!」
 そう思うと同時に、彼は取締りが何と云ったかということが非常に不安になって来た。庸之助が自分の一生に見切りをつけてしまい得なかったということが、一面非常に嬉しかったと共に、何だか痛ましいような気も
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