持ち、心も優しい姉が、埋もれきった生活をしているのを見るのは、浩にとって辛かった。情ない心持がした。が、或る尊さも感じていた。体の隅から隅まで、憫《いじ》らしさで一杯になっているように見える彼女の、たださえよくはなかった健康状態が、このごろはかなり悪い。どうしても只ごとでないらしいのは、彼女を知る者すべてにとって、憂うべきことである。病気になられるには全く貧乏すぎる。
姉さんにも、自分等にとっても辛すぎる。可哀そうすぎる……。
浩は「案じられ申候」という字を見詰めながら心の中につぶやいたのである。
何物かに引きずられるように、思いつづけていた彼の心は、突然起った幾つもの叫び声に、もとへ引き戻された。
「うまいうまい! なかなか上手だ!」
「ネ、これなら……ホラそっくりだろう!」
「帰ってくると、また火の玉のようになって怒るぜ!」
「かまうもんかい! そうすると、見ろそっくりこのままの面になるからハハハハハ」
「フフフフフフフ」
振り向くと、笑いながらかたまっている顔が、石鹸のあぶくを掻きまわしたように見える間から、今いつの間にか作られたと見える一つの滑稽な人形がのぞいている。
括《くく》り枕へ半紙を巻きつけた所には、擬《まが》うかたもない庸之助の似顔が、半面は、彼がふだん怒ったときにする通り、眉の元に一本太い盛り上りが出来、目を釣り上げ、意気張って睨《にら》まえている。半面は、メソメソと涙や鼻汁をたらして泣いて、その真中には、どっちつかずの低い鼻が、痙攣《けいれん》を起したような形で付いていた。庸之助の帽子をかぶり、黒い風呂敷の着物を着せられたその奇妙な顔は、浩を見ながら、
「どうしたら好かろうなあ……」
と歎息しているように見える。浩は苦笑した。おかしかった。が、心のどこかが淋しかった。賑やかなうちに妙に自分が、「独りだ」とはっきり感じられたのであった。
二
お咲の体工合の悪いのは、昨日今日のことではない。じき体が疲れるとか、根気がなくなったとかいうことは、今更驚くほどでもないけれども、いつからとなくついた腰の疼《いた》みが、この頃激しくなるばかりであった。上気せのような熱が出たりするようになると、お咲は起きているさえようようなのが、浩にもよく分った。心を引き締めて、自分を疲らせたり、苦しませたりするものに、対抗して行くだけの気力が、姉の体からは抜けてしまったらしい。ちょうど亀裂《ひび》だらけになって、今にもこわれそうな石地蔵が、外側に絡みついた蔦の力でばかり、やっと保《も》っているのを見るような心持がした。実際お咲にとっては、小さいなりに一家の主婦という位置が、負いきれない重荷となってきたのである。
人のいない二階の隅で、部屋中に輝やいている夕陽の光りと、チラチラ、チラチラ、と波のように動いている黒い葉影などを眺めながら、お咲は悲しい思いに耽った。若し自分が死ぬとなれば、否でも応でも遺して行かなければならない息子の咲二のことを思うと、胸が一杯になった。ようよう今年の春から小学に通うようになりはなっても、何だか他人に可愛がられない子を、独り置いて逝《ゆ》かなければならないのかと思うと、死ぬにも死なれない気がした。一足、一足何か深い底の知れないところへ、ずり落ちかかっているようで、お咲は気が気でなかった。
「咲ちゃん、母さんが死んじゃったらどう?」
訳の分らない顔つきをしている息子を、傍に引きよせながら、お咲は淋しく訊ねた。そして、ひそかに期待していた通りに、
「死んじゃあいや※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
と、はっきり一口に云われると、滅入っていた心も引き立って、「ほんとうにねえ。今死んじゃあいられないわ」と思いなおすのが常であった。小さい手鏡の中に荒れた生え際などを写しながら、
「まあずいぶん眼が窪みましたねえ。こんなになっちゃった……。死病っていうものは、傍《はた》から見ると、一目で分るものですってねえ。ほんとにそうなんでしょうか? あなたどうお思いなすって?」
と云ったりした。
「私なんかもう生きるのも死ぬのも子のためばかりなんですものねえ、咲ちゃんのことを思うと、ちょっとでも、もう死んだ方がましだと思ったりしたことが、こわくなるくらいよ」
浩が買って来た人参を飲んだり、評判の名灸に通ったりしても、ジリジリと病気は悪い方へ進んで行った。普通なら大病人扱いにされそうに※[#「うかんむり/婁」、106−14]れたお咲が、せくせくしながら働いているのを見ると、浩は僅かばかりの雪を掌にのせて、輝く日光の下で解かすまい解かすまいとしながら立たせられているような心持になった。目に見えて姉の体は、細く細くなって行く。けれども自分の力ではどうにもならない。大きな力が、勝手気ままに姉の体を動かし
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