浩の心のうちには、さまざまな変化があった。善いことも、悪いことも、ごたまぜに、ただ彼が選ぶにまかされたような状態のうちにあって、彼の先天的の自重心、年のわりには鋭かった内省が、多少の動揺はもちろんあったが、彼を希望していた道に進ませて行った。そして、自分からいえばあまり喜ばれない心持の多かったときでも、周囲の者、特にたくさんの上役からは、いつでも正直な善い子供、若い者として認められていた。比較的、無口で落付いていることや、すべての服装が商店に育つ若い者にありがちな、一種の型から脱していたことなどが、彼をどこか他の者とは違った頭をもっているらしく思わせたということもある。もう五十を越している取締りなどは、「お前は、偉くなろうと思えば、きっとなれる質《たち》だ。うんと勉強をし、吉村さんのように主人が洋行させてくれるかもしれない」と激励するほどまでに、彼を可愛がっていた。従って、一日に一度、山の手の住宅から出かけてくるだけの主人も、店の若い者の中では、浩を一番有望な者だと思っていた。それに特別な関係――自分等で育てて一人前にしてやろうとするものが、かなり見どころある人間になってくるのを見る、先輩たちの心持――が、浩に対する信用とも、好意ともなって、表われてきたのである。
が、青年となった浩には、ただK商店の忠実な一使用人というだけでは、満足出来ない何か或るものがその衷心に起った。毎日をさしたる苦労もないかわり、また跳り上るほど大きな歓びもなく、馴れた事務を無感激にとっているだけで、自分の生活を全部とするには、不安な頼りない心持があった。彼の生れつき強い読書慾は、心に不満のあった彼を文学で癒すように導いた。浩は十七になった年から、盛に読み出した。僅かな時間を割《さ》いて図書館に通った。そして、ほんとに自分を育てて行く力というものを、自分自身のうちに発見すると同時に、すべてにおいて「自分」の自由でない毎日の生活が、ますます満足出来なかった。彼は決して贅沢《ぜいたく》なことはのぞまないが、もう少し静寂な時間と、自分独りの時間が欲しかった。けれども浩はよく働いた。真面目に上役の命令に服した。若し考えることを望むなら、それより先に食べる方を安全にしておく必要がある。それ故、目下生活状態を変えることは、不可能であった。まだ十九の、この春学校を出たばかりの者に、十五円ずつ支給してくれる位置は、そうどこにでも転がっていないことは解っていたのだ。いろいろ先のこと、また現在のことを考えると、浩は、絵葉書の集めっくらをしたり、気どった――浩には少しもよいとは思えない――先のムックリ図々しく持ち上った靴などを鳴らしていられなかった。店でくれる黒い事務服の古くなったのを、彼は外出しないときは着ることにしていた。僅かの時間を出来るだけ、利用しようと努めた。それが、変り者と呼ばれる原因である。が、彼はそんなことに頓着するほどの余裕がなかった。制せられない知識慾――押えられる場合が多いにつれて、反動的に強くなりまさってくる――は、ときどき彼に苦しい思いさえさせたのである。
浩が、暇を惜しんで勉強するとか、月給の中から、ほんの僅かずつでも、国許の両親へ送っているということなどは、彼がくすぐったいように感じる賞め言葉を、ますます増させる材料になった。何ぞというと、引き合いに出される。それも、他の多くの若い者の励ましのためだと余りはっきり解っているときなどは、彼は嬉しいどころか、かえって不愉快になりなりした。が、ともかく一族の中では、どのくらい幸運な部に属する自分か分らないと思って、彼は一生懸命に自分のほんとの道を拓《ひら》くべき努力をつづけた。けれども、ときには彼の心も情けないと感じることがあるくらい、好意の枷《かせ》が体中に、ドッシリと重く重く懸っていたのである。
浩の一族は、実際幸福に見離されたように見えた。多勢生れた同胞《きょうだい》も、皆早く死んで自分と遺ったただ一人の姉のお咲も決して楽な生活はしていない。嫁入先は、相当に名誉のあった仏師だったのだそうだが、当主――お咲の良人――恭二は見るから生存に堪えられなそうな人であった。かえって隠居の仁三郎の方が、若々しく見えるくらい衰えている。もとから貧乏なのだが、お咲が十六のとき、娘の婚期ばかり気にやんでいた母親が、自分の身分と引きくらべて何の苦情なく、嫁入らせてしまったのである。この縁を取り逃したらもう二度とはない好機らしく思われたのであった。翌年咲二が生れてこのかた、お咲の全生命は子供に向って傾注され、生活のあらゆる悩ましい思いは、子供に対する愛情でそのときどきに焼却せられながら、どうやら今日まで過ぎて来たのである。派手な、明るい世間から見れば、ざらにある、否それより惨めな家に、相当に調《ととの》った容貌を
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