日は輝けり
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)上気《のぼ》せた

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)また一人|攫《さら》われて

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1−8−75]
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        一

 K商店の若い者達の部屋は、今夜も相変らず賑やかである。まぶしいほど明るい電燈の下に、輝やいた幾つもの顔が、彼等同志の符牒のようになっているあだ名や略語を使って、しきりに噂の花を咲かせている。
 けれども、変幅対と呼ばれている二人の若者は、いつもの通り、隅の方へ机を引き寄せて、一人は手紙を書き一人は拡げた紙一杯に、三角や円を描き散らしていた。「三角形BCEト、三角形DCFトノ外切円ノ交点ヲGトシ…………」
 崩れるような笑声が、広い部屋中の空気を震動させて、彼のまとまりかけた考えと共に、狭い窓から、広い外へ飛び出してしまった。若者は苦々しそうに舌打をして、上気《のぼ》せた耳をおさえながら鉛筆を投げ出すと、立って向うの隅にいるもう一人の処へ行った。
 彼は杵築《きづき》庸之助という本名で、木綿さんというあだ名を持っている。人間は黒木綿の着物と、白木綿の兵児帯《へこおび》で、どんなときでも充分だという主義を持っていて、夏冬共その通り実行していたからなのである。ときには滑稽だとほかいいようのないほど、馬鹿正直な、生一本な彼は、他の若い者の仲間からはずれた挙動ばかりしている。冗談も云わず、ろくに笑いもしない。徹頭徹尾謹厳だといわれたがっているように見られた庸之助は、或る意味の嫉視《しっし》と侮蔑から変物扱いにされていたのである。武士道の遵奉者であった。
「浩さん! 手紙か?」彼は仲間の上に身をかがめた。
「うん。もう君はお止めなのかい? まだいつもより早いんじゃあないか!」
「駄目だよ。奴等の騒で考えも何もめちゃめちゃだ。何があんなにおかしいんだ。娘っ子のように暇さえあれば、ゲラゲラ、ゲラゲラ、笑ってばかりいやがる」
 庸之助は、浩に対してよりも、もっと当つけらしい口調で云った。一つ二つの顔が振向いた。そしてもう一層の大笑いが、壁をゆするようにして起った。彼の口小言を嘲笑したのはいうまでもない。
「あれだ! 見ろ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
「まあ君、そんなに怒ったって駄目だよ。宿直へでも行ったら好いじゃあないか、あすこならお爺さん一人で静かなもんだよ」
「なに好いよ。今夜は……誰れ? お父さんかい?」
「ああ手間ばっかりかかってね」
「姉さんのことでも云ってやるのかい。同胞《きょうだい》があると、お互に三人分も四人分も心配しなけりゃあならないねえ。結句僕のように独りっきりだと、そんな心配は要らないで、さっぱりとしている。まあ書き給え、僕は湯にでも行って来ようや!」
 浩は、片手で耳をおおうようにしながら、小学の子供の書く通りに、一字一字に粒のそろった、面の正しい字を書き出した。のろのろと筆を動かしてゆくうちに、彼の心持は次第に陰鬱になってきた。不幸な運命の、第一の遭遇者である彼の父、孝之進の、黒い眼鏡をかけた※[#「うかんむり/婁」、101−1]《やつ》れた姿。優しい老母。気の毒な姉。
 家柄からいえば、孝之進は名門の出である。けれども、若いときから、生活の苦味ばかりを味わってきた。ちょうど彼が出世の第一歩を踏み出そうとしたときに起った、政治上、社会上の大津浪が、家老という地位をも、先祖伝来の家禄をも、さらって行ってしまったので、彼の一生はもうそのときから、すべて番狂わせになった。文部省の属吏を罷《や》められてから、村長を勤めたことがあるというだけの履歴は、内障眼《そこひ》で社会的の仕事から退かなければならなくなってからの、彼等一家の生活を保障するには、何の役にも立たなかった。
 世間並みの立身を望んで焦るには、孝之進は年をとりすぎたし、また不治の眼疾をどうすることも出来なかった。で、求めて得られなかったあらゆる栄誉、名望、目の醒めるような出世を、ひたすら息子の浩にのみ期待した。けれども、完全に順序だった教育をするほどの資力がないので、思いあまった孝之進は、或る知己に頼んで、浩を、ガラスや鉄材の輸入を専らにしているK商店に入れてもらった。五年前、まだ十四だった浩は、独りで上京し、自分で自分を処理して行かなければならない生活に入った。学費から食料までK商店で持って、或る職業教育を授ける学校に通わせてくれる代り、卒業すれば幾年か、忠実な事務員として報恩的に働くべき条件が、附随していたのである。
 三年四年。小さいときから、いろいろなことに接してきた
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