て行くのを、止めたとてとても力が足りない。ただ涙をこぼしたり思い悩んだりするほかしようのない自分等が、浩には辛かった。激しい波浪と闘いながら、辛うじてつかまり合っているような自分達のうちから、また一人|攫《さら》われて行くということを、考えてさえゾッとしずにはおられなかった。自分と年のあまり違わないただ一人の姉、女性という、同情の上に憧憬的な敬慕を加えて感じている者の上に、死を予想するのは堪らない。彼は死なせたくなかった。ほんとうに生きていて欲しかった。出来るだけ姉に力をつけながら、浩はつくづく自分がふがいないというように感じたりしたのである。
家の中を歩くのさえ大儀になってからはお咲も、もう死ぬときがきたと感じた。
「死ななけりゃあならないんだろうか?」
お咲は、誰にともなく訊ねた。
「私が死ぬ? 今?」
動けなくなる前に、せめて咲二の平常着《ふだんぎ》だけでも、まとめたいと、お咲は妙にがらん洞になったような心持を感じながら、鍵裂きを繕ったり、腰上げをなおしたりした。学校へも一度は是非行って、よくお願いもしておきたいと思っていると、或る日、先生の方から咲二に、呼び出しの手紙を持たせてよこした。一月に一度か二度は、きっと学校に呼ばれて、お咲は、人並みでない咲二について、親の身になれば情ない、いろいろの小言を聞かなければならなかったのである。
四月の第一日。R小学校の運動場には、新入学の児童が多勢、立ったり歩いたりしていた。最後に教室から出されて、小砂利を敷きつめた広場の一隅に並ばされた一群の中には、紺がすりの着物を着た咲二が混っていた。付き添ってきた母親達の傍に二列に立ちどまらせると、「皆さん! 右と左を知っていますか? お箸を持つのはどっちでしょう?」と先生が笑いながら訊ねた。
「先生僕知ってます!」
「僕も!」
「僕も知ってます※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
元気な声が、蜂の巣を掻き立てたように叫んだ。咲二も何時の間にか知っていた。お咲は有難かった。
「それじゃあ、今先生が右向けえ右! と云いますから、そうしたら皆さん右を向いて御覧なさい。さあよしか、右向けえ、右!」
子供達は機械のように、体中で右向けをした。たくさんの足の下で、崩れる小石のザクザクという音、楽しげな笑声が、明るい四月の太陽の下で躍《おど》った。
けれども! 咲二だけは動かない。
お咲は目の前で、青い空と光る地面とが、ごちゃ混ぜになったような気がした。頭がひとりでに下った。
振返って、この様子を見た先生は、意外な顔をして訊ねた。
「なぜ右を向かないの?」
「僕右向きたくない!」
母親達の中から、囁《ささや》きが小波のように起った。「面白いお子さんですこと」と云う一つの声が、咎《とが》めるようにお咲の耳を撃った。
先生は体をこごめて何か云った。そして、「好い子だからね」と云いながら、頭を撫でて、両手で右を向かせた。先生の顔には、始終微笑が漂っていた。手やわらかであった。が、屈んでいた体を持ち上げた彼の眼――詰問するように母親達の群へ投げた眼差し――を見た瞬間、お咲は直覚的に或ることを感じた。
「もう憎まれてしまった!」
「あれが始まりだったのだ」とお咲は思い廻らした。
「何もお前ばかり悪いんじゃあないわねえ」いない咲二を慰めるようにつぶやいた彼女は涙を拭いた。
翌日は大変暑かった。が押してお咲は出かけた。毎度の苦情――注意が散漫だとか、従順でないとかいうこと――が、並べられた。そして注意しろと幾度も幾度も繰返された。
妙に念を入れた、複雑な表情をして云った気をつけろ、注意をしろという言葉の中から、彼女は何か心にうなずいた。帰途に買った一ダースの靴下を持って、翌《あく》る日遠いところを先生の家まで行って、とっくりと咲二のことを頼んできたのである。なぜ早く気が付かなかったろうというような軽い悔みをさえ感じた。
二日つづけて、暑い中を歩いたことは、お咲の体に悪かった。帰宅するとまもなく、彼女は激しい悪寒《さむけ》に襲われ、ついで高い熱が出た。開けている下瞼の方から、大波のように真黒いものが押しよせて来て暫くの間は、何も、見えも聞えも、しないようになった。押えられ押えられしていた病魔が、一どきに彼女を虐《さい》なみにかかったのである。
浩が驚いて駈けつけたときには、お咲は熱と疲労のために、病的な眠りに落ちていた。
熱の火照《ほて》りで珍らしく冴えた頬をして、髪を引きつめのまま仰向きに寝ているお咲の顔は、急に子供に戻ったように見える。荒れた肌、調子を取っている鼻翼の顫動、夢に誘われるように、微かな微笑が乾いた唇の隅に現われたり、消えたりした。浩は、陰気な火かげで、かつて見たことのなかったほど活動している彼女の表情を見守った。彼女の
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