持っている、すべての美くしい魂が、この貧しくきたない部屋の中で、燃え輝やいているように彼は感じた。紫色の陰をもって、丸く小さく盛り上っている瞼のかげで、いとしい、しおらしい姉の心はささやいているようであった。
「ほんとうに、可哀そうな私共! 私達の気の毒な一族……。けれども、今私が死ななけりゃあならないということを、誰が知っているの?」
あやしむような、魅惑的な微笑が、彼女の唇に浮んで、また消えた。
三
お咲の病気は、皆が予期していたより大病であった。手後れと、無理な働きをしたのが、一層重くさせていた。骨盤結核という病名で、お咲は神田のS病院に入院して手術を受けたのである。
このことを知らされた国許の親達は、非常に驚いた。まさかこれほどまでになろうとは、誰も思っていなかったので、暫くは何をどうして好いやら、途方に暮れたような様子であった。
孝之進は、娘の病気などには、少しも乱されないように、強いて心を励ました。死ぬのではあるまいかという不安。どうかしてなおしてやりたいものだという心持などが、追い払ってもしつこくつきまとって心から離れなかった。八人も生れた子はありながら、その中の六人まで連れて行ってしまった死神が、今また大切な一人をねらっていると思うと、年をとり、心の弱くなった孝之進は堪らなかった。いろいろな心痛で、とかく心が打ち負かされそうになっても、彼は老妻のおらくなどには、一言も洩さなかった。人間一人二人の死は、さほど悲しむべきものと考えないように教育された若いときの記憶習慣が、孝之進の心に、何かにつけて堪え難い矛盾を感じさせた。仏壇の前に端坐して、祈念を凝《こら》している妻の姿などを、まじまじと眺めながら、彼は「女子《おなご》は楽なものじゃ」と思った。女は泣くもの歎くものと昔から許されていることも、口先では侮《あな》どっているものの、衷心ではほんとに美しいこともある。涙を浮べながらでも笑わずに済まない男の意地――たといそれは孝之進が自分ぎめの考えではあったにしろ――はずいぶんと辛いものであった。娘が病気になってから、おらくは、以前よりはっきりと、地獄、極楽の夢を見るようになった。
或るときは一家睦まじく一つの蓮の上に安坐していることもあり、また或るときは、お咲だけが、蓮から辷り落ちて、這い上ろうとしながら、とうとう、下のどこか暗い方へ落ちて行ってしまったところなどを見た。生きるのも死ぬのも因縁ごと、如来様ばかりが御承知でいらっしゃると観じている彼女は、怨むべき何物も持たない。精進を益々固く守り、彼女にとっては唯一の財宝である菩提樹《ぼだいじゅ》の実の数珠が、終日その手からはなれなかった。
「南無阿彌陀仏、阿彌陀様!」
おらくの瞼は自ずと合った。
「若し生きますものなら、どうぞお助け下さいませ。また若しお迎え下さいますものならば、どうぞ極楽往生の出来ますように……」
サラサラ、サラサラと好い音をたてて数珠を爪繰《つまぐ》りながら、おらくは涙をこぼした。
「私のこの婆《ばば》の力で何ごとが出来ましょう……?」
その間にも、お咲の弱りきった体のすぐ上のところまで、しばしば死が迫ってきた。今か、今かとまで思われたことも一度や、二度ではなかった。けれども、いつも、もう一息というところで、彼女の若さが踏み止まった。一週間も危篤な状態を持ちつづけると、もうほんのほんの少しずつ生きる望みが湧いてきた。そして、急にどういうことはないと云われるまで、皆は自分等まで一緒に死にかかっているような心持でいたのである。風に煽おられて、今にも消えそうに、大きく小さく揺らめいたり、瞬《またた》いたりしていた蝋燭の焔が、危くも持ちなおした通りに、快方に向くと彼女のまわりは、にわかにパッと明るくなった。安心と歓喜と、愛情の強いほとばしりで、お咲の病床に向って、楽しげに突進して行くように浩は感じた。当面の死から逃れ得たことは、彼女の生命が永久的に保証されたかのような安心をさえ与えたのであった。運がよかったということが口々に繰返され、医者まで、「全く好い塩梅でしたなあ!」と、自分等の技術に対してよりも、むしろ何か無形の力に対して感歎しているらしいのを見ると、浩も、「ほんとに危ういことだった」としみじみ感じない訳には行かなかった。そして、あれほど生かそうとする力と死なそうとする力が、互に接近し、優劣なく見えていたときに、ほんの機勢《はずみ》といいたいほどの力が加わったために、彼女が今日こうやっていられるのだと思うと、何だか恐ろしかった。自分が一生送る間に――もちろん一生といったところで、その長さを予定することは出来ないが――今度のような、微妙な力の働きを感じて、心を動かされることがどのくらい多いのだろうかと思うと、もっとせっせ
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