沈んだりした。
 暫く睨みつけてから、孝之進は、浩に、
「勘当する! 二度と顔を見せるな!」
と、ぶつけるような声で云った。非常に興奮している孝之進に口添えをして、取締りは、彼の憤りの理由を説明した。
「杵築にお前が親しくしていることを云ったものでね」
 そのとき、取締りの顔には、「云わないでも俺はちゃんと知っているぞ」という監督者でなければ分らないような満足した、幾分誇らしげな表情が現われた。そして、孝之進の憤りがあまり激しいので、「こうまで怒ろうとは思わなかったが」というふうに彼の方を眺めた。浩は一言も弁解もせず、反駁もしなかった。彼には、とりまとめ得ないほど、動揺している老父の感情を、この上掻き乱すに忍びなかったのである。それに、いくら弁解しても、互に理解し合えない或るものが横わっていることをも、彼は考えたのである。
 取締りが席をはずしてから、孝之進は浩に繰返し繰返しその心得違いを諭《さと》した。彼は、いやしくも家老の家に生れたものが、罪人の息子――夕刊売と親しくし、つまらない小説などに凝っていることは恥辱だと思え。もう決して致しませんと誓言しろと云って涙をこぼした。浩は、口では強い言葉を出しながら、その奥では哀願しているような父親の姿を見ると、辛い思いで胸が一杯になって来た。
「お父さんの考えていらっしゃるほど、文学というものは賤《いや》しいものではありません。どうぞ心配しないで下さい!」
「それではやめないと云うのか?」
 浩は迷った。「止めないのはもちろんのことではある。が、父親にそう云ったらどのくらい、たとい考え違いであっても、悲しむか分らない。それなら、止めますと云うか!」彼の本心が承知しなかった。一時逃れのごまかしをすることは、互のために真の意味で何にもならぬ。自分を偽ることは堪えられない。こういうときに、「止めます」と云いきる人の例はたくさん知っている。
 けれども……。浩はキッパリと、
「止められません!」と云った。
「止められん?」
「ええ止められませんお父さん! あなたの心持はよく解ります。けれども……けれども書くことも、読むことも止めてしまったら、何に励まされて、辛いことや苦しいことを堪えて行くんでしょう? ねえお父さん! あなたも辛いだろうが、僕だって決して楽じゃあないんです!」
 浩はポロポロと涙をこぼした。父親に対しての愛情と、芸術的良心が、一致しない奔流となって、彼の体中に渦巻いた。
 息子の決然とした態度に、孝之進の心は、たじろぎ、よろめいた。大きな大きな絶望が、真暗な谷底へ、一気に彼を蹴落したのである。説明のつかない涙が、とめどもなくこぼれた。親子二人が、卓子《テーブル》を挾んで、男泣きに泣いているとき、すぐ傍の若い者達の部屋では、幾度ともなく、笑声が崩れては響いた。浩は、無言のまま強い緊張で、後頭から頸筋にかけての筋肉が、重く強直してしまったような心持でいた。
「二度と顔を見ぬ」
 孝之進は、帰りしなにまた繰返した。そしてトボトボと帰途に就いた。浩は夜道を独りやるに忍びないので、幾度送って行くと云っても、孝之進はきかなかった。
「貴様のような奴に送られんでもよい!」
 けれども、彼がK商店の門を出て停留所まで来る間に、振返って見ると、一つの人影が、幾らかの間隔をおいて自分について来るのを発見した。浩だということはすぐ分った。けれども孝之進は知らない振をして、じきに来た電車に乗ってしまった。が、いざ自分が乗ろうとしたとき、浩の影がお辞儀をしたらしく見えたことが、非常に孝之進の心を掻き乱した。駈け戻って、叱り過ぎたと云いたいような心持が強く起った。が、そうするだけの勇気が、彼にはなかった。
「可哀そうなお父さん! ほんとに可哀そうなお父さん! あなたの心持は分っています。よく! けれども、あなたの思っていらっしゃる偉い人には、私はならないでしょう!」
 大きい音を立てながら、馳け去る電車のかげを追いながら浩はつぶやいた。
 居眠っているような姿で、思い沈んだまま孝之進は小石川のはてまで、運ばれて行った。停留場のすぐ傍から、家までの道路は、瓦斯《ガス》だか、水道だかの工事で、そこここ掘返されていた。低く、暗く灯っているランプの明りなどでは、視力の弱っている孝之進に、平らな地面と、泥や砂利などのゴタゴタ盛上っているところとの見境いが、はっきり解ろうはずがない。まして、心が疲れ、望みを失ったようになっている今、その混雑した路を、巧く通り抜けることは、非常に困難なことである。孝之進は、ちょうど盲人の通りに、上半身を心持後へそらせ、杖がわりに持っている洋傘《こうもり》で、前方を探り探りたどって行った。ところへ後から追いついた一台の自転車が、彼に突かかりそうに近よってから、耳元で威すように激しくベル
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