ると、少しも歩調を緩めないで歩いていた庸之助は、とある一軒の長屋のような小家の前に、ピッタリ足を止めた。暗いなかに、垂れたような軒の下には、建附の悪そうなぼろ格子が半分ほど隙《す》いて見える。
庸之助は、格子に手をかけて、ガタピシいわせると、その物音で、障子をあけて中から出て来たのは、年頃ははっきり分らないが、何にしろ二十代の女であった。きっと赤坊を裸身で抱いた、みすぼらしい宿の女房でも出るだろうと予想していた浩は、つい「オヤオヤ」と思った。ぞんざいな髪形をして、荒い着物の上に細い紐のようなものを巻いている。変だなあと思っていると、女は「オヤ、今晩は。えらいお見かぎりだったねえ……」と云って、「まあお上りなさいよ」と庸之助の肩を叩いた。この瞬間、浩はハッと或ることを思いついた。庸之助に対して、彼は蒸返るような憎しみを感じると同時に、また一方強い好奇心が動かされた。彼はちょっと庸之助の方を見た。そしてその平気な顔を見ると、屈辱と憤怒と羞恥が一塊まりになって、彼の胸のうちで爆発した。浩は、「僕は帰る」と叫ぶや否や、一目散に勝手を知らない道をかけ出した。一歩足を出したとき、彼は自分の手を捉えた者のあるのを感じた。が無意識で拳骨を振りまわした。何か柔かいものがぶつかったような気がした。
彼は無我夢中で明るい通りに出るまで馳けた。そして、明るい街燈が両側を照らす道を、安心して、のびやかに歩いているたくさんの人を見たとき、浩はいたたまれないような恥かしさに迫られた。
店へ帰ってからも、浩は落着けなかった。床に入って、目を瞑ると、彼は庸之助が悪魔のような形相をして自分に向って来るような幻を見た。友情も何も踏みにじってしまうほど庸之助が憎く、また恐ろしかった。
「世の中だ。試みられた」と彼は心のうちでつぶやいた。
「あんなに試みられなければならない自分か?」
浩の目前《めさき》には、高瀬の一部屋の様子がフト現われた。平和な部屋、花、額、たくさんの笑顔、軽い足音。皆が嬉しそうに喋り、微笑みいつくしみ合っている……。浩は、堪らなく情ないような、悲しいような感情に苦しめられた。訳の分らない憂鬱が、心の隅から隅まで拡がって来た。浩は夜着をかぶったなかで、オイオイと子供のように声をあげて泣いた。
十
限られた日数と金の続く間に、あれもこれもと、孝之進は毎日毎日、纏りなくせわしい日を送った。M家の金のこともあるので、出来るだけ早く帰国したいと心は焦りながら、今夜浩の世話になっているK商店を訪ねて、おそくも明日の夜行で立ちたいと、彼が決心したのは、予定より五日も後れていた。
平常、高瀬などでも浩のことは賞めこそすれ、悪いなどとは爪の先ほども云ったことがないので、孝之進は心ひそかにKの取締りからも、同様な賞讃を期待して出かけて行った。応接間に通されて、取締りが面会した。
「浩さんもなかなかよく尽していてくれるので、私共もめっけものだと思って喜んでおります」
最初は、普通、若い者にきっと与えられる通りの賞め言葉が続いた。「正直だとか、品行が正しいとか云うのは、俺の子なら、何も驚くことではない」と孝之進は思った。一体彼は、昔から家老という代々の家柄は、たとい自分の代でその職にはつかなくなったとしてもどこか平《ひら》の士とは違ったところがなければならないと思っていた。が、貧乏なときでも、病気のときでも、それは別に奇蹟を現わすほどの力もないらしく見えたまま今日まで過ぎて来たのだ。けれども、浩を賞めぬ者のないということ。「それそこだ! そこが争われぬものだて」と彼は思ったのである。孝之進は、「いいえそんなことは、ちょっともありません」という返事を聞きたいばかりに、「それでも何か注意すべきことがあれば」聞かして欲しいと折返して頼んだ。そして、全く彼の心を動顛させる事実として、浩が文学を勉強していること、庸之助とつき合っていることを聞かされたのであった。孝之進は、取締りの云うことは一々もっともだと思った。この順で行けば鰻上りに出世して、近い内には社会に枢要な位置を得る人物――直接政府の官省から、招待状などの来るような者――になれるだろうと思っていた彼の希望は、根柢から覆がえってしまったように感じた。彼の目の前には、はてもないガラン洞の口がいきなり開いた。体中の力が、毛穴から一時に抜けてしまったようで、孝之進は、暫く何とも云えなかった。だんだん心が落付いて来るにつれて、自分の愛しているものが、自分の苦労も知らずに勝手気儘にふるまっているのを見る失望が、やがては憎いというような感情に変じて来た。その非常に複雑な激情に血を湧き立たせながら、彼は浩を自分のところへ呼んでもらった。「戯作者。罪人の息子。この馬鹿奴!」断片的に、単語が頭の中に浮いたり
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