いって、さっさと引返せない友愛がある。ときどき、仲間の者などと、妙な手真似や符牒で、自分を前へ置きながら、自分の悪口らしいことを云っている庸之助を見ると、浩は、非常に不愉快になって、もう二度と来まいと思う。自分の未練さや、執拗さが物笑いの種にされると思うと堪らなくなった。けれどもまた彼のいる傍を通ると、つい立ちどまって一言でも二言でも話して行かなければ気がすまないものが、その次までに心に湧き出して来る。そして、庸之助がこうなって来れば来るほど、彼のうけたあまり非実際的だった道徳教育――彼をして抽象的な善の理想ばかりあまり多く持たせ、一人の人間として生存している間に必然的に起って来る、善とはいわれない事件に関して、悪の中から善の方へ自分及び他の周囲を見なおす気持を持っていないようにさせた教育――によって、一旦善の理想が破れると、直ちに世界中自分まで引きくるめて「悪ばかり」のものにしてしまった心持が、いとおしく感じられた。彼は真正直な人間である。また或る点からいえば、非常に単純でもある。善悪がピッタリ貼りついている世の中を、善と悪とを半々に持った人間が動いているのだとは思えないのだろうということは、浩にも分った。善は天で悪は地獄と庸之助には思われている――善をあまり有難く見すぎ、悪をあまり堕《おと》しめすぎていた。「あんな奴がなんだい!」と見ぬ敵を軽んじていたところが、いざ立合って見れば、自分の知っている術よりも遙かに巧妙な術を持っている。どうしようと思う間もなく、おとなしく降参してしまう……。浩はどうしても庸之助を憎めなかった。彼が、今までの生活をすべて忘れようとしている努力、或るときには装うていることがはっきり分る粗暴などを見ると、浩は、彼の衷心の苦痛を考えて涙ぐんだ。互の境遇が変ると、互の間を結びつける友愛が深ければ深いほど、辛いものだと浩はしみじみ感じていたのであった。
 浩が文学を、懸命にしていることは、K商店の年寄り株にとって不安の種であった。少しでも成功しそうに見えることは、よけい心配をまさせた。文学者という妙な者に、自分等の施したいろいろな恩義を忘れて成りはしないだろうかということ、仲間の「とかく心の動き易い若い者達」が、釣られて、「妙な目をして考えこんだり」「訳の分らない独り言を書きつけて、夢中になったり」するようになりはしないかということが問題になった。で、年寄の取締りは、「そんな年中貧乏して、洋行出来る望みもない文学とやらは止せ止せ」とおりおり云った。けれども、文学ということも、どういうことなのか、あまりはっきりは解らない――ただ見ようとせないでも、自然と目に入るほど、そこここでかれこれ云われている遊蕩文学とやらいうことほか知れていない――で云いながらでも彼等の顔には幾分臆病な表情と、「俺達の云うことだから聞け」という、持前の押しつけがましさが漂っていた。
 それ故、結局浩はやはり従来の通り、書けるだけ書き、読めるだけ読む態度を、急に改める必要も起らなかった。それに、このごろ盛に頭を擡《もた》げて来る成金に、刺戟せられて我も我もと未来の大金持を夢想している他の若い者は、頼まれても浩のように古本漁りをしたり、ウンウン云って二枚三枚賞め手もないものを書こうと、思う者さえなかったのである。
 或る晩、高瀬へ行った帰途、浩は庸之助の所へよった。まだわりに早かったのだけれども、彼の籠は、浩が来て間もなく空になってしまった。
「もうお前も帰るだろう?」
 庸之助は、銅貨の溜った籠の底を、ジャラジャラいわせながら、浩に聞いた。
「うん、帰る」
「俺の家へ来て見ないか? ここからじきだぜ」
「そうだなあ……。行っても好いけど、もう今夜はおそいや、また今度にしよう! ね?」
「駄目だよ、今度だって、そんなにいつも早く俺の体が空かねえよ。来て見なよ、すぐだからさ、いやかい? そうじゃなかろう、来いってばよ」
 庸之助もしきりにすすめるし、浩も一度ぐらい彼のいるところを見るのも悪くはないと思った。で、浩は無邪気に彼と並んで歩き出した。広い通りを曲っては、先に庸之助を捉えたような裏道へ入り、また表通りに出ては、二人はかなり歩いた。
「じきだって、かなり遠いじゃあないか?」
「そりゃそうさ。坊っちゃんの考えることたあ、何でも違うよ」
 庸之助は、ニヤニヤ快さそうな微笑を浮べて、チラリと浩の顔を見た。そしてまた黙って何を云っても返事をしないで歩きつづけた。裏通りで、解らないが、恐らく町名が異ったろうと思う頃、庸之助は人の家の間の、もっともっと穢くせまい小道に伴《つ》れ込んだ。浩はそろそろどこへ行くのだか、こうやって庸之助に引き廻されているのがいやになった。馬鹿馬鹿しい心持がして、軽々しく物好きに動かされたことを、我ながら不愉快に思ってい
前へ 次へ
全40ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング