た。が、せわしい夕暮時に、何の特徴もない売子に、注意を引かれたのは、自分一人ぎりだと解ると、一層あの若者の挙動が怪しまれた。暫く立ちどまっていた彼は、やがて我ながら好奇心の強いのに、少し驚ろかされ気味になって、また歩き出そうとした。実際五六歩足を運びながらも、なぜだか心が引かれた。何だか自然と足が止まって、無意識に見返ったとき! ほんとうにその瞬間、チラッと見えて、隠れたあの若者の顔が、ほんの一瞥をくれただけではあったが、彼には見覚えがあった。忘れられない顔であった。
「杵築君だ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 浩は、張りきっていた弦《つる》が切れたような勢で駈け出した。今あの顔が見えたと思ったところへ来たとき、彼の姿はもうそこには見えなかった。
 人溜りのうちを彼は捜した。が、見えない。見つからない。人に聞こうにも何となし気が臆した。彼は力抜けのした様子で、立ちよどんでいると、さっきからその様子を見ていた年寄が、
「今の夕刊売かね? そんならホラ、そこの角を曲って行きましたよ」と教えてくれた。
 東京の大通りのかげには、よく思いがけないほど狭く、ごちゃごちゃと穢い通りがある。その通りもその一種で、細く暗い道一杯に、饐《す》えた臭いが漂っていた。ぼんやりした明りにすかして見ると、一ヵ処窪んだ、どこかの裏口らしいところに、むこうを向いた一つの影が立っている。
「あれだ!」
 また遁《に》げられては大変だという虞《おそ》れで、心が一杯になった浩は、恥も外聞も忘れて、四這いになるほど体をかがめ、どんなに昼見たら穢いか分らない道の片側にぴったり身を引きそばめて、息を殺して一歩、一歩と動いて行った。変則な緊張で彼はほとんど不愉快なほど、奇妙に興奮していた。視点がはちきれそうな鼓動と一緒に近づいたり遠のいたりするようにも感じられた。
 そして、終《つい》に手が届きそうな近くまで来たとき、浩は一飛びに飛んで、庸之助の着物の端を、どこという見さかいもなく掴んだ。驚愕の衝動が、彼の手のうちに感じられた。このとき、そのままそこに坐りこんでしまいたいほどの安心と、憎しみに近いほどの、強い強い愛情とで、浩の胸は震えた。片手で着物を捉えながら、彼は庸之助の手を捜した。そして握ると同時に「痩せたなあ!」という思いが、彼の心を貫いて走り、涙が一|雫《しずく》ポタリと、瞼から溢れた。同時に彼の緊張しきった感情が、少しは緩められた。が、「何と云ったら好いのか!」彼には言葉が分らない。同じように体を堅くしながら、無言のまま二人は立っていた。
 都会の雑音が、彼等の頭上に渦巻き返っている。黒い犬が二人を嗅いで通り過ぎた。

        九

 果して浩が予想し、案じていた通りのことが、痛ましい事実となって、庸之助の上に現われていた。或る意味においては、庸之助は、浩の思っていたよりも、もう一層下ったところまで行っていたのである。
 彼はもうすっかり夕刊売子になっていた。言葉から態度から、特有な見栄まで、もうすっかり自分のものにしているのを見て、浩は言葉に云えない感にうたれた。庸之助は、半ば愚弄と侮蔑の意味であり、半ばは友情から、浩のことを「坊っちゃん、坊ちゃん」と呼んだ。浩は、冷汗を掻いた。
「坊ちゃんお前はいい男だね。だが利口じゃあないよ。俺みたいな人間に、こびりついて友達だなんぞと云っていると世間並みな出世は出来ゃしねえ。何にしろ俺は、懲役人の息子だからねフフフフ。生かして置かれるんだけでももったいないんだろうさ」
 彼は、浩が一生懸命になって、力をつけようが、励まそうが、始めから耳をかそうともしなかった。
「努力も忍耐も結構だろうさ、が、俺のことじゃあねえよ。浮き上ろう浮き上ろうとする頭を、ちょいと出ると押し込み押し込みされちゃあ、どんな強情な奴だって、往生するほかないじゃあないかい? もう少し年をとると、お前も俺の心持が解って来る。利口なようでもお前の学問は本の上だ、可愛がられた者の利口だ、なあ坊ちゃん」
 庸之助のすべては、浩に一種の圧迫を感じさせた。たった二つほか年の違わないなどということは、二人の間では、もう問題でなくなったらしい。浩は、彼がほんの僅かの間に、こんなに心が変るほどのいろいろな経験を得て来たのかと思うと、善い悪いなどは抜きにして、各自のいろいろな生活ということが、強く感じられた。庸之助に会ったとき、浩はきっと陰気な沈んだ心持になった。彼に同情はしていても、彼に職業を与えるなどということは自分の力では出来ない。彼からいえば、「俺のような者は、理想なんかより、飯一杯の方へ頭が下る」と云う通り、自分の思っていてどうにもならない同情などは、迷惑ではあろうとも、何の足しにもならないのは、浩にだって解っていた。けれども浩としては、それならばと
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