した。
 自分で自分をどう処置して好いか解らないほど、強い激しい、内心の動揺や争闘に苦しみぬくとき、浩はあまり辛いと、ただの一秒でも好いから、何も思いも感じもしなくなってみたいと、冗談でなく思う。何一つ音のしない、物のないところに、目を瞑《つぶ》って坐っていたくなる。けれどもそれならばといって、続々起って来る疑問や感激や思想の変化に伴って来る一種の不安定さなどを、回避しようかといえば、そうではない。彼の衷心では努力、ただ努力と絶叫している。「どんなに辛くても辛棒しろ。じッと踏みこたえて前へ進め。努力、お前を改善するのは努力だけだぞ! しっかりしろ我が若者!」極度な静寂を求める心の一面には、高々とこう叫ばれる。「そうだ! ほんとうにしっかりしろ、我が心※[#感嘆符二つ、1−8−75]」彼は感激して涙をこぼす。ますます努める。彼の心は苦しむ。いよいよ苦しんで突き通るべきいろいろのものにぶつかる。
 それ故、彼はどのような苦痛――外面的にも内面的にも――が現われようが、それに負けて引き下る自分を予想し得ない。従って彼は何事も諦めきれない。失敗した人が、どうせ駄目なことは第三者の目から見れば明白なのに、「新規蒔きなおし」に遣りだす心持はよく分る。ネロが、短剣を胸に擬してまでも自分が今こうやって死ななければならないことを諦められなかった心持を思うと、浩は、男らしくないとか卑怯だとかいうことを通り越して、ひしひしと自分に直接な共鳴を感じるのであった。それ故、庸之助がまた上京し、Sへ勤めようとすることは彼に充分同情出来た。
「それに、あの人は、何も自分自身を見捨てる理由はないのだ。どうぞうまく、まとまれば好いがなあ……」
 浩は、庸之助の体を、高く高く両手に捧げて、ドシドシと大きな広い公平な道を歩いて行きたいような心持がした。けれども、庸之助が働かなければならない普通の世間では、庸之助の父親は「罪人」――浩は、「罪人」と云うとき、例えば「あいつは一度牢へ入って来たんだとさ」と云うとき、一種異った表情を大抵の人は現わすことを、認めている。――で、庸之助のような「罪人の息子」は自分等の仲間に入れて置かれないように考えられている。
 多勢子供達が遊んでいる。「鬼ごっこするから、お――いで。鬼ごっこするからお――いで!」歌いながら、手を組み合って、仲間を集めているところへ、弱いおとなしい子が来かかって、入れて欲しそうな顔をする。歌っていた子達がそれと見ると、急に丸くなって「ねっきりはっきり、これっきり、あとから来る者入れないぞ」と叫びながらまとまってしまう。除《の》けものにされた子供は、そんな仲間を憎まないだけ心が善くなるか、それ等を向うに廻して勝つだけ、悪くも強くもなるかしなければならないようになって来る。
 庸之助の現在の位置は、そうではあるまいかと、浩は思った。大きな会社とか商店とかいう、希望者の多いところでは、彼一人断わるということに何の痛痒《つうよう》も感じないのだ。世間多数の人々を対手にして行くには、対手になる人がちょっとでも不安や不愉快に思うものを、たといそれがどんなに些細なことでも、保持して行くことは、会社として商店として不得策なことは、彼にもよく分っている。「取締りの人は、彼を弁護し、或は賞揚して置いたかもしれない。けれども突然彼が辞した理由を説明すれば、万事は定まってしまう。ほんとにもう何も云うことはないというほど、きっぱり定まってしまうのである。」彼は、妙に悲しいような、大きな愛情と大きな反感に縺《もつ》れた心持に打たれたのであった。
 それから二度ほど、めいめい違った会社や商店から、庸之助に就ての間合わせが来た。それが若い者の仲間に知れわたると、まるで彼が生きているということからが、既に自分等に対して僭越であるような、冷笑《ひやかし》や罵詈《ののしり》が、彼の名に向って浴せかけられたのである。
 浩は、非常に不安であった。この東京の中に、次第に悲境に沈みつつある? 自分の親しい友達がいる。自分の目から遁《のが》れていると思うだけで、非常に心が平らかではなくなった。始終心の隅に、彼の名と姿がいろいろな想像を加えられて重く横たわっていたのである。

 往来は混んでいた。今出たばかりの――行きの電車に追いつこうとして駈け出した浩は、とある本屋の傍まで来かかると、つい今まで自分のすぐのところで鈴を鳴らしていた夕刊売が、急にあわてた様子で身をよけたのに、フト注意を引かれた。足が鈍った。思わず振返った。そして何かから遁れるように両手で人波を掻きわけ掻きわけ、急いで行く後姿――どの売子もする通りに、社の名が染め抜きになっている印袢纏《しるしばんてん》を着て、籠を斜にかけた後姿――を眺めた。浩は、彼の驚きの原因を求めようとして周囲を見まわし
前へ 次へ
全40ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング