べてのときかなり、さっぱりしていた。が、年を取り、衰えきったような父親が、苦しそうな思案に暮れているのを見ると、また、姉が啜泣きながら、「こんなに辛い思いをかけたり、自分でもするくらいなら、私ちょっとも癒りたくなんぞなかったわ」と云っているのを見ると、浩の心は乱された。どうにかしたいと思った。店で、帳簿に何万何千という金額を幾通りも幾通りも記入していると、浩には余り多過ぎて、平常ああやって通用している金なのだとは思えないような気がした。
 苦しい思いで埋まったような毎日を送りながら、浩はフト思いついて、万朝に短篇の小説を投書した。腕試しということもあるが、賞金を一層彼は望んでいたのである。けれども、結果は反対になってしまった。掲載され、金を送られてみると、彼にとっては、待ちに待っていた十円よりも、掲載されたということの方が倍も倍も嬉しかった。彼は興奮した。以前から、単に趣味というよりは、もっと喰差さった愛情、畏敬を持って文学に接していた彼は、このことで彼の境遇としてはかなり大きな励ましを得たのであった。
 十円。持った瞬間彼の頭のうちには、買いたい本がずらりと並んでおいでおいでをした。けれどもすぐその晩、浩は、お咲の手にそっくり渡して来てしまった。
 その次にお咲や孝之進などに会ったとき、浩は足の裏がムズムズするような気がした。「あの自分にとっては、忘れ難い十円を皆のために手離したのだ。よかった。けれども……?」彼は誰か何かそれに就いて云い出しはすまいかと思った。そして、心のどこかで待っていた。が、帰るまで終に一言も、それが云い出されなかったときには、安心したような物足りないような心持が、一杯になっていたのであった。
 浩の十円は、役には立ったに違いないが、孝之進の苦労を軽めることはもちろん出来ない。彼は窮した。そして終に高瀬という、先代からの知己で、浩の身の上も心配していてくれる家に、月十円ずつの出費を頼みに出かけた。
 主人夫婦は非常に同情した。丁寧に相談に乗って、
「どうにかしてはあげたいが、何にしろ月十円ずつ、限りなくということは、なかなか難かしいことだから」という言葉が繰返された結果、或る一つの案が出された。それは、孝之進のいる村の、Mという物持ちの先代が、企業の資本としていくばくかの金を、高瀬から借用したままになっているから、それを返済させるように骨を折ってくれれば、互に借りるとか貸すとかいう心持なしで、相当な費用を出してあげられるというのであった。その金額は大きかったが、現在のM家の経済状態では何でもないことであった。成功する望みが、孝之進の目にさえ明かなものであった。

        八

 それから間のない或る日のことである。
 商品の新荷が到着したばかりのK商店は大混雑をしていた。裏の空地で多勢の人足が荷を動かす掛声、地響、荷車の軋《きし》り。倉庫へ運び込む一|騒動《さわぎ》、帳簿との引合せなどで、店員は大抵表や裏に出払っている。好奇心に馳られて、太い長いボールトで押しつぶされそうになるのも知らないで、覗いているたくさんの子供や子守を追いはらうだけでさえ一役であったのだ。
 浩は平常の通り自分の机の前に腰かけて、帳簿を整理していた。外界から来る雑駁《ざっぱく》な刺戟と、内心のかなりに纏《まと》まっている落着きが、皮膚の表面で混乱しているような心持になりながら、彼は指の先を汚して――浩はペン軸のごくの下部を握るので人指し指の先と中指の第一の関節をめちゃめちゃに汚す癖を持っている――せっせと数字を書き込んでいると、突然大きな音を立てて電話が鳴った。彼は頭を上げた。
「誰かいないかな?」目で捜《たず》ねたけれど、自分を措いて誰も見えないので、浩はいつもの癖通り左の耳に受話機を取りあげた。
「モシ、モシ、あなたはK商店ですか?」
 太い声が、最初のモシ、モシと云うのに、非常に抑揚をつけ、区切りを切って呼びかけた。Sという大きな会社の庶務から、取締りに出て欲しいと云うのであった。Sというのは、平常店とはほとんど関係のない会社なので、解せない顔をして出て行った取締りは、かなり長く何か話していたが、やがて帰りしなに浩の傍を通りながら、「杵築のことを訊いて来たよ」と一口云って、そのまま行ってしまった。
「杵築のこと?」あまりいきなりだったので訳の分らなかった浩は、暫く考えているうちに、就職のことについて問い合わせがあったのだということが解った。
「就職? それじゃあ東京に出て来たと見えるなあ。Sの事務に入ろうとしているのだ!」
 そう思うと同時に、彼は取締りが何と云ったかということが非常に不安になって来た。庸之助が自分の一生に見切りをつけてしまい得なかったということが、一面非常に嬉しかったと共に、何だか痛ましいような気も
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