杯でもあったし、また法律上の許す範囲では恐らくこれが限度だったのでしょう」
 最後に弁護士が、落付いた口吻《こうふん》で、云いおわったとき、庸之助は、大きな力でぶちのめされたような気がした。土気色な顔をし、手足を氷のようにして、うなだれている彼の唇は、ビリビリと痙攣していた。
「分りました。有難う、実に……」
 こわばった舌で、辛うじてこれだけ云うと、彼は早速|暇《いとま》をつげた。
 どこをどう歩いているのか解らずに、ただやたらに足を動かしていた彼は、しばしば「冤罪《えんざい》だ! 実に恐ろしい冤罪だ!」とつぶやいた。けれども、何か心の中で、ヒソヒソと、それを否定している響があった。
「冤罪だ? お前の父親が?」
 通る者の誰も誰もが、自分の顔を見ては、微かながら、侮蔑的な注目を与えて行き過ぎるのを彼は感じた。
「お前かい? 息子というのは……」
 どの目もどの目も咎める。身の置場のないというような不安が、始めて庸之助の心に強く強く湧いたのである。永住の地と思い定めて帰った故郷も、やはり今の自分を安らかに、落付かせてはくれぬ。狭量な、無智な批評の焦点となろうよりは――。どんな人間でも匿《かくま》う穴や、小道の多い東京へまた戻る決心をした。
 もう再び踏まぬかもしれぬ土地と離れるときに、せめて父親にでも会って行きたかった。監獄の門まで行ったことさえあった。が、考えて見れば、「公明正大」とあんなに書いてよこした彼が、赤衣を着、鎖につながれた姿を見ることは、また見せることは互に、何という辛いことか、たとい冤罪にしろ(庸之助は冤罪という字を見ると、心がグーッと圧しつぶされた。)余り苦しすぎる。恐ろしい。とうとう面会を断念して彼は、僅かでも二人の間に、「何がほんとだか解らないもの」を置きたかったのである。
 東京へ一足踏み込むと同時に、すべてを諦めてどこかの職工にでもなろうと思って来た、彼の心は動かされた。名誉心、功名心を刺戟するあらゆる事物が、年若い彼を苦しめ、虐《さい》なんだ。自分よりもっともっと学問のない、力のない者まで、社会の表面で相当に活動しているのを見ると、今更自分をさほどまでに見下げることも、躊躇《ちゅうちょ》された。たといのろのろとではあっても、周囲の若い者達が出世の道をはかどらせているうちに、自分一人わざと取り残される必要もなく思えた。
 木賃宿に近いほど、下等な旅館の中二階で、昼飯がわりの焼薯《やきいも》を、ボツボツ食べながら、庸之助は身の振り方に迷っていたのである。
 けれども父親の上京などで、せわしい日を送っている浩は、庸之助が浅草の一隅で、そんな風にしていようとは、もちろん知ろうはずもなかったし、考えられもしないことであった。彼は、病院と父親のいる小石川の家との間を、いろいろな用件で往復していたのである。
 このごろになっては、もうお咲も、良くなるだけよくなりきってしまったような容態であった。重く考えている浩にも、彼女の顔色や髪の艶などは、以前よりも健康らしくなったことは否めない事実である。こうなってからまで病院の世話になっているのは、金持のすることだという皆の思いが、やがてお咲自身にも退院を思い立たせた。医者も止めはしなかった。これから先の治療は、彼等が工面し、掻き集めて出す費用に匹敵するほど、現われた効果がないので、ちょうど孝之進の目が、どうせは盲目になると定まってからは、無理でない程度の読み書きを許された通りの心持なり事の成り行きなりが、お咲の上にも繰返されたのである。退院したとはいっても、一月に一週間ずつ入院して注射を受けなければならない条件つきであった。それ故、その毎月に一回ずつの入院費の支出に就ても、彼等はまた工夫しなければならない。自分のためにせずとも好い借金をさせたり、相談をさせたりすることに、すっかり気がひけて、家中の者に気がねしているお咲を見るのが浩には辛かった。この金目のかかる病人一人を抱えて、家の者は一人として、そのような言葉を口にこそ出さなかったけれども、互の顔が合うたびに、目と目が言葉にしないこういう心持をつぶやき合った。――家中がどんなに、湿っぽく暗くなっているか解らない、これというのも皆あれのおかげだ。浩は金が欲しいと思った。二十円でもまとまった金があれば、今の皆の心がどんなに引き立てられるかしれないし、また姉にしろ、身を削るような涙をこぼさずとも済む。金があったらなあと、はっきりつぶやきそうにまで、ほんとうに強く彼は思った。けれども十五円ほか月に貰わない――それもようよう今年の四月から――で、貯蓄などは出来ないのに、二十円はおろか五円だって、右から左へ動く金は持っていない。今までだとて浩はもちろん、決して豊かな若者ではなかった。けれども金には――ただ本を買う場合を除いて――す
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