いことに、彼の不安は単に杞憂に過ぎなかった。帳簿には、一厘一毛、疑問な点さえもなかったのである。
 けれども、頭を集めて調べていた連中の中からは、
「なあんだ! 何でもなかったじゃないかい!」
という不満そうな、つぶやきが起った。上役の者までが、意外そうな――少くもただ安心したというだけではない――表情を浮べて、「偉い時間《ひま》潰しをやったなあ」と云いながら、帳簿を伏せるのを見た浩は、思わず愕然とした。ほんとうにゾッとした。
「彼が正直であったのが、皆は不平なのだ! 若し、一ヵ処でも掛け先を、ごまかしてでもいたら、どんなに噪《は》しゃぐつもりだったのだ!」
 憤り――友愛に強められ、燃え立った憤り――が、彼の胸一杯になった。何か云わずにはおられない感情が、喉元に込み上げた。けれども言葉が見つからなかった。何と云って好いか分らなくなって、彼はフイと、部屋を出てしまった。
 それからやや暫く、仲間の一人が彼を捜しに来るまで、浩は彼の「隠れ家」と呼んでいる石段で、種々な考えに沈んでいた。(K商店の二棟の建物を、接続している廊下の外に、六段ほど苔に包まれた石段がついていた。日光が、建物に遮られて、直射したことがないので、石段から拡がっている二坪ほどの地面には、一杯苔がついて、陰気ではなかったが、外のどこよりも落付いていた。浩はそこに腰をかけては考えるべきことを考えた。隠れ家というのが、自ずとそこを呼ぶ名になっていたのである。)彼は、どんな人に対してでも、善人だとか悪人だとかいう断定は下されないものだと思った。「まして、或る人のすることは、悪いに定まっているなどと思ってはすまない。互に許し合って行かなければいけない……けれども」彼は、憤りとか、憎しみとか、抵抗とかいうことを、全然、自分の心から除去してしまうことはとうてい不可能であった。「何か一つ過失をした者の前に、我々は決して、尊大に完全そうにかまえてはいけない。自分でもいつ、するか分らないじゃあないか?」浩は「お互に人間なのだから、出来るだけ愛しあって、仲よくして行かなければいけない」と思っている。そして、弱い者の前に、強がっている者を見ると腹が立つ。特殊な自分の権利を勢一杯利用してそういう特典を持たない者に誇ろうとする者に対して憤りを感じる。
 けれども、もっともっと自分が努めて、心を練り、善くし、賢くしたら、腹を立てることも、憎むこともなくなる――例えば、Aという金持の男と、Gという貧乏のどん底にいる男がある。Aが、何の働きもせずに、それでいて立派な生活をしているのを、いくら働いても食うだけのことも出来ないGが、「ああ羨しいなあ」と思い、やがては、狂的な嫉妬で、Aを殺してしまう。金を欲しいのでもない。GにはただAの面を見ると癪《しゃく》に触るという心だけが強かったのである。Aの家族は悲しむ。Gを憎む。出来るだけ酷刑に処してもらいたいと思う。が、死刑にされても、まだ足らなく思う。こういうときに、Gの心持も、Aの家族の心持も、どちらも肯定され、理智的ばかりでなく、ほんとうの心から、両方ながら憎む念などはない――というようになるはずなのかもしれないとも思った。がそれは大変むずかしいことだ。
「すべて好い……」という言葉を思い浮べて、彼は涙をこぼした。

        七

 ちょうどこのとき、東京駅には、下関発の急行列車が到着した。彼等の頭を押し潰されそうに、重苦しく陰気な通路から、吐き出されたたくさんの旅客の中に混って、庸之助の姿が見えた。小さい鞄を一つ下げ、落着かない目で周囲を見まわしていた彼は、やがて飛び出すように雑沓するうちを、かき分けてどこかへ行ってしまった。都会の中央の、この忙がしいうちで、何の奇もない、田舎者丸出しの一青年の彼に、注意を引かれた者は、ただの一人もなかった。
 庸之助は、あの日に東京を立つと、ほとんど夢中で故郷の小さい町まで運ばれて行った。そして、停車場へつくとすぐその足で、かねて見知り越しであり、今度の父親の事件に関係した某弁護士を訪ねた。職業から来る、おもおもしいまた、幾分傲慢のようにも思われる弁護士の前に、息をつめて立っている庸之助の、煤煙や塵に穢《よご》れ、不眠で疲れきり、青黒く膏《あぶら》の浮いた顔は、非常に憔悴《しょうすい》して見えた。
 弁護士は、一通り形式的な同情を表してから、事件の説明にかかった。彼の言に依れば、今度の事件の陰には、もっとたくさんの小事件が伏在していて、三年前に、郡役所の増築のあった頃から胚胎していたものであったそうだ。町長、町会議員の選挙の時々に、行われていたいろいろな術策なども、法律上からいえば、立派に一つ一つの罪状となっていたのである。父親の行為からいえば、二年の刑期はむしろ軽いと云わねばならぬ。
「それが私の腕一
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