おらくは、平常の通り、お咲の食事の給仕をしていた。玉子をかけた一膳の御飯を、いつまでもかかって、舐《な》めるように食べている娘の前に、彼女は、ぼんやりと、坐っていた。引きつめた鬢《びん》が、めっきり薄くなったのや、淡い日差しが、淋しく漂っている頸元などを目に写るがままに見ていたおらくは、フト、お咲の懐から、何か繩のようなものが、三寸ほど下っているのを見つけた。
「オヤ! 何だろう?」
それとなく、気をつけて見ていたおらくは、暫くすると、ほとんど気付かれないほど、顔色をかえた。彼女は、
「まあ髪が大層こわれたなあ……」
と云いながら立ち上った。そしてきわめて自然にお咲の後へ廻って、片手が髪に触るや否や、電光のような速さで、もう一方の手が、下っていた紐のようなものの端をつかんだ。
「アッ!」お咲は低い驚きの声をあげた。そして、それを渡すまいとして、母の手にすがった。が、おらくは全体の力をこめて、紐を手のうちに手繰《たぐ》り込んだ。
二人は、全く無言で、奪い合った。暗い一かたまりが、あっちにゆれ、こっちに倒れながら部屋中を動き廻った。暫くして、動くのが止んだ。お咲の啜泣きが起った。とうとう紐は、おらくの手にとられたのであった。
おらくは、息を切らせ、手を震わせながら、そのかなり長い妙なものを明らかに見た。それは、思わず彼女が、「ああ如来様、南無阿彌陀仏!」と叫んだほど、驚くべきものだった。お咲の下に着ている単衣の襟と、片方の袵《おくみ》が裂かれて、かたいかたい三組の繩によられていたのである。「ああすんでのことであった」彼女は何とも云えない安心に心を撫でられるように感じた。そして泣き伏している、娘の肩をやさしくだきながら、
「こんなことは、決して考えてはなりませんぞ。よくなるときには、だまっていても、如来様がなおして下さる。早まったことは、決しておしでないよ。ああほんに……」
とつぶやいて、頬に貼りついた、髪を掻き上げてやった。お咲の啜泣きに混って、孝之進の寝言が、高く聞えていた。
お咲の最初の試みは、かようにして失敗した。けれども、この失敗したということが、一層彼女の死に対する狂的な渇仰《かつごう》を燃え立たせたのである。
「死ねば何にも判らなくなる」
それだけが非常に彼女の、闘いつかれた心を誘惑したのであった。彼女は、一日中「どうしたら死ねるか?」ということを考えていた。
「どうしたら死ねる?」
天井や戸や窓を見まわした。けれども、人一人を死なすには、それ等はあまり扁平な形すぎる。終に彼女は自分の体までしらべ始めた。
「どうにかして、死ねないものだろうか?」
あっちこっち触っていた手先が、フト髪に触った。
その冷かに、滑っこい感じが、第一に彼女の注意を引いた。次いでその量、その……長さ! に思い至ったとき。
彼女は満足らしい微笑を洩した。そして、さっさと手早く、何の躊躇もなく、櫛を抜いた。ピンを取った。背中に散った髪を、一まとめにして、指の先でくるくるとよりをかけた。それからその端を持って、一杯に頸に巻きつけた。彼女は目を半眼にして、そろそろ、そろそろと力を入れて、締め始めた。
愉快な軽い圧……。ややそれよりも重苦しい圧……少し強い圧……かなり強い……圧。
お咲は顔が赤く、熱くなってきたのを感じた。
頭の方へ皆血が上って、顔中の血管が一本あまさず一杯パンパンになったようで、こわばる心持がする。耳がガンガンいう。息がつまって来た。心臓が破れそうに鼓動する、目が堅くなる……。
お咲は半《なかば》夢中で、ゼイゼイしながら、手に力をこめた。
「もう一息!」
と、思った瞬間、
「お母さん※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
咲二の――夢寐《むび》にも忘られない咲二の声が彼女の耳元で叫んだ。
「お母さん※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
ハッとして手がゆるむと同時に、甘い、すがすがしい空気が、鼻や口から一時に流れこんだ。思わず大きな、深い溜息が出た。けれども、熱く火照って霞んだ彼女の眼に写るものは、相も変らぬ暗い四方と、落ちた髪道具、細く消え入りそうな自分の膝ばかりであった。
彼女はこれから後、幾度も幾度もいろいろな方法で、自殺を企てた。が、いざという際にいつも失敗した。
彼女のうちにあって、まだ彼女を死なせたくない何物かが、ほんとのもう一息というときに、強い力で彼女の心を引き戻したのである。
咲二の叫び声となり、良人の顔となり、或るときは、
「もう少し辛抱すれば、きっと幸になる! きっとなるに違いない!」
という、はっきりとした感じとなって、彼女をまた、ふらふらと生の境域に誘い込んだ。
こうして彼女は病的な死の渇仰と、生に対する衷心の絶ち切れない執着とに苛まれたのである。
堪えられない焦躁と煩悶が心一杯に
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