の生活が全く堪らないものに感じられて来た。息子が恋しくなって来た。彼《あ》の命にかけていとおしい咲二の顔を一目でも見たい。
「お母さん!」
という呼び声に飢えている。
お咲は今まで何度両親に頼んだか分らない。哀訴し、涙をこぼしても、まだ病気が本復しないと思っている彼等はどうしても、咲二を会わせない。それどころかかえって、彼女の目にふれないようにと、心を配っている。「気違いが、自分で気違いだと知っておれば、ほんとうの気違いではないのだ」ということは確かではあるが、お咲に対しては、惨めすぎる。
会わされなければ、会わされないだけ、お咲の愛情はますます熱度を加えて行くとともに、病的になって来たのであった。
「咲ちゃんや!」
愛すべき息子の名を思っただけで、彼女の目前には、瞬く間に、彼の全体が浮み上った。
彼が抱かれたときの膝の重み、腕のからみついた感じ。ほこりまびれに、乾き切った髪の毛の臭いや、彼特有の柿の通りな肌のにおいなどが、苦しいほどの愛情を、そそり立てた。
ちょっとでも咲二の声が聞えると、飢えきった動物の通り、喘いだり、息をつめたりして耳をすませた上、畳に耳をぴったり貼りつけてまで、僅かな余韻も聞き逃すまいとする。
閉っている無双窓を、差しているピンの先で、みみずの這うほど僅かずつ、時間をかまわずこじあけて、顔中に縦に赤い縞の出来るのもかまわずに、息子の様子を、偸み見ようとする。
戸をこじっているとき、唇をかみしめ、かみしめ、外を覗いているとき、彼女の心の中には、ちょうど囚人が、爪の間にかくせるほどの鑢《やすり》で、鉄窓のボールトをすり切ろうとしているときの通りの、寸分異わない熱心さ――常識で判断出来ない忍耐と、努力、想像の許されないほどの巧妙な手段を発見すること――をもって、全身の精力を傾注することを惜しまなかったのである。もちろん惜しい惜しくないは、問題にもならなかったのである。
それ故、自分の鍾愛《しょうあい》の者に、自由に接近し愛撫し得る、位置にある者すべてに、彼女は病的な嫉妬を感じた。激情が心を荒れまわって、誰彼の区別なく罵った。
「どうしても会わせないの? どうしても?」
血が燃え上るような憤怒で、彼女は夢中になった。戸を両手や体でガタガタと揺ったり、蹴ったりした。散々荒れまわった末、疲れきって暫く呆然としている彼女の心が、また落付いて来ると、前と同様な苦悩が、お咲の心を掻き乱し、悶えさせたのである。
お咲は泣きながら、無双から差しこむ、日光の黄色い中に跳ねまわっている塵《ちり》の群を見ながら考えた。
「私はどうすれば好いのだろう? 一生この中で暮さなければならないのか、一生! 一生この中で?」
彼女は恐ろしさに震えた。
「云うことはとりあげられず、咲二にも会われず、口もきかれず、この苦しい思いをつづけながら、何のために、生きていなけりゃあならないのか?
咲ちゃん、お前は母さんがこんなにも思っているのが解る? 可愛いお前をみすみす人にとられて、母さんはどうして生きていられよう! たった一人で、幾日も、幾日も、一年も二年も、死ぬまでも気違いだと思われて生きているなんて!」
お咲の目前には、この上なく恐ろしい、悲しい、身の毛のよだつような幻が現われた。生きながら半身土埋めにされて、野鳥や獣に肉を喰われて、泣き喚めいている者。足の先から血が通わなくなり、死に腐って来る。けれどもまだ気は確かなまま、もがき、泣き叫び、逃げようとしても、どうにもならないむごたらしい死様を、自分もしなければならないのだと、彼女は、思った。
「生き身を、こんなところにとじ込められ、正気なものを気違いあつかいにされてどうして生きていられよう。この苦しい恐ろしさをいつまで堪えなけりゃならないのか、あ! こわい! ほんとうにこわい! 咲ちゃんや※[#感嘆符二つ、1−8−75] お前!」
彼女は子供のように、大きな声をあげて泣きながら、名状しがたい恐怖に、怯えた。この暗い部屋! この情けない苦悩! これから先、どのくらいつづくか分らない、ながあいながあい一生※[#感嘆符二つ、1−8−75] 恐るべき時間が無限に、彼女の前に拡がっているのを感じた。そして考えた。
「どんなに長いか判らない一生……。一生の間……?」
不意に或る一つの非常にはっきりした考えが、彼女を馳け出させそうな勢で浮み上った。
「死ぬ※[#感嘆符二つ、1−8−75] 私は……」
大声で叫んで、体ごと跳ね上ったようにお咲は感じた。けれども実際には、かえって、傷ついた獣のように、冷たく臭い畳の上に、彼女は息もつかず突伏していたのであった。
何かの形と字を、木版摺りにした、気鎮めの禁厭の紙が、彼女の乱れた髪を見下すように、鴨居《かもい》にヒラヒラしていた。
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