》りつけるか? 浩はそれ等の限りないことに考え及ぶと、ただ小さい、力弱い自分ばかりが悔まれるのである。自分の年はどうにもしようがないのだとは思いながら、せめて三十近くにもなっていたら、どのくらいすべてが工合よく行ったか分らないのにという心持さえした。
 けれども、それ等はただ思うだけのことで、彼はやはりK商店の事務机の前に、勤勉でなければならなかったのである。それが彼の最上である。が、浩が要求する最上の標準に比べて、現在自分が実現することを許されている最上は、何という低い、小量のものであったろう! どんな人にとっても、ほんとうに世の中はただ楽しいものではない。光輝あるものではない。辛い。
 時には独り、全く独りで奮闘するのに堪えられないようになる。
「けれどもお前は男だ! しっかりしろ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 浩は、無音無形の、彼の守りに励まされては、涙を呑みこみ、足を踏みしめて、彼の道を進もうと努力していたのである。
 孝之進の健康は、浩の想像したより悪かった。彼はもうすっかり、永年の積り積った苦労に打ち負かされてしまったのである。
 お咲の部屋の、無双窓の下に敷いた床から離れることは、ほとんど出来ないようになった孝之進は、急に七十を越したように見える。すべての精神活動が鈍って、ただまじまじと一日中を送っている彼の仕事といえば、折々、枕の下に隠して置く浩からの手紙――もちろん時には、拡げたまま、布団の上に忘れて置くこともあるが――を偸み読みすることと、大きな大きな鼾《いびき》をかいて、眠ることとであった。眠っている間に見た夢と、現在の事実とが混同して、目が覚めたばかりには、妙に調和のとれない心持になどなった。
 M家の金のことなどは、もう思い出しても見なかった。考えて、気を揉んでも、体の自由は利かず、どうせなるようにほかならぬという心持もした。何もかも気がなくなった。自分の命に対しても、彼は愛情も憎しみも感じないようになってしまったのである。
 今も孝之進は、人気のないのを幸、例の通り手紙をとり出した。そして、昨日読まなかった分から、一通とり出した。それは浩が、おらくあてに書きながら、孝之進にもよめるように、いつもの大きな字で、父親の体を案じていること、自分の力の弱いことを気の毒に思うことを述べたものであった。一字、一字に浩の衷心から湧き出した優しい慰撫が漲っている。心のうちで、出来るだけくさしながら読んで行っても、孝之進の目にはしきりに涙が浮んだ。
 頭をガクンガクンさせながら、「もっともだ、もっともだ」と呟いては涙をこぼしていた孝之進は、フト今までひそまり返って物音一つしなかった隣室で、お咲の身じろぐ音を聞きつけると、急に気がついて、こごんだ体を引き起しながら、あちこちを見まわした。猫の子にさえも、泣顔などは見せたくなかった彼は、好いあんばいに、誰もいず、また来もしなかったのに少しホッとした心持になった。自分で自分をごまかす空咳を、二つ三つした。そして何心なく振向いて見ると、思いがけず無双の間から、瞳が二つ、キラキラと自分を見ているのに、すっかり驚ろかされた。お咲がこちらを覗いていたのである。
 日光にあたらないのと、病気とで、暗い中から僅か見える彼女の顔は凄い美しさがあった。全く瞬きをしないような光った二つの目は気味悪い。
 先刻《さっき》からの様子を見ていたな! と直覚的に思いながら、孝之進は少し狼狽した口調で云った。
「どうした? 呼ぶか?」
(用事のときには、おらくを呼ぶことになっていた。)
「お父さん。咲二は? 何しているの、呼んで頂戴な?」
 孝之進は、ちょっと顔を曇らせた。そして片手で手紙を枕の下に突込みながら、片手を振り振りなるたけお咲の方は見ないようにして、
「うんよしよし。あっちへ行っておれ」
と優しい声音で云った。
「またうんよしなの? お父さん! どうして咲二にそう会わせて下さらないの? え? ね、どうぞ――ほんとにちょっとで好いんだから、一目で好いのよ」
「ああよし、よし、待っておいで、今に会わせてやる。今に……。な、いくらでも会わせてやる」
「今に、今にって、私もう何度おたのみするんだか知れやしないじゃあないの? ひどいわあんまり!」
 急激に発作して、発狂したお咲は、このごろになっては、次第に精神が鎮まるにつれて、一日の中には、かなり度々正気に戻るようになって来た。
 フト夢からさめたように気が付いた瞬間、彼女は暫く自分がどこにどうしているのやら、まるで解らなかった。けれども、次第に正気でいる時間が長くなり、いつとはなく、ほとんど正調に復した頭脳になって来ると、自分の今までのことが、ちぐはぐながら思いやることが出来た。
 そうなって来ると、お咲には、その無一物な暗い、陰気な一部屋
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