でもなったでしょうよ」
喘息だと見えて、喉をゼイゼイ云わせながら、気のなさそうに答えると、爺さんはまた不機嫌らしく、
「ア夕刊、ア夕刊!」
と力なく叫びながら鈴を鳴らし始めた。賑やかな街の真中に、寒さに震えながら立ち竦《すく》んだようにしている爺さんは、まるで、瀕死の鷺《さぎ》が、目を瞑り汚れた羽毛をけば立てて、一本脚で立っているように見えた。
浩は手持不沙汰にその様子をながめながら、考えた。
「職工になることはあり得べきことである。それもいい。けれども、自分に無断で姿を隠す必要がどこにあるだろう?」
何か嬉しくない事件でも起ったのだろうということが、推察された。がどうしても仕方がない。爺さんに礼を云って歩きながらも、浩は気が気でないような心持がした。若し誰も知らないところで病《わずら》って、そのまま死んででもしまったらと思うと、自ずと涙ぐまれた。雨が降る晩などは、濡れそぼけて行倒れとなっている庸之助を夢にまで見ながら、また先のように思いがけない機会が、思いがけないところで彼に引き合わせてくれることを、心願いにしていたのである。
けれども、庸之助と、浩との間には、そのとき既に偶然の機会も力の及ばない距離が出来ていた。二度目に浩が、索ねて行った時分には、彼は北海道の鯡場《にしんば》行きの人足の一人となって、親分に連れられ、他の仲間と一緒に、もう雪の降った北のはずれへ旅立ってしまった後であったのである。
あの日「天の配剤によって」自分の心の中に希望を見出した庸之助は、今まで自分から進んで同化しようとしていた周囲に、急に反感を持ち、恥辱と憎しみを感じ始めたのであった。(庸之助は、俥夫と喧嘩をしたことから、交番に引かれたことまで、すべて天の配剤であると信じ、あの事件の代名詞として天の配剤を用いた。)善くなろう善くなろうとしている庸之助にとって、厭わしい、醜悪なこととほか感じられないすべてのことが、彼の周囲に渦巻いている。あらゆる下等な誘惑が、互の拒もうともせぬ間に漲りわたっている。
庸之助はこの間に在って、独り自分の所領を守るべく努力したのである。けれどもそれは非常に困難なことである。彼等――庸之助からいえば「下劣な奴等」――の群は、今までおとなしく仲間になっているように見せかけて、急に寝返りを打った庸之助に対して、小面憎い感を免かれない。
「フン、貴様がそう出りゃ、こっちもまた出ようもあらあ」という反感が皆の心を占領して、庸之助が、真面目になればなるほど、総がかりの迫害が募って来た。一度、全身をあげて、彼等の仲間の一員となっていた庸之助の内心には、たといいかほど抑圧していようとも、どんな欲求があり、誘惑があるかということは、彼等にはよく解っている。こうすれば、こう感じるということを、千も万も承知でいながら、チクリチクリと苛なんでは、苦しむ彼をなぶり者にしていたのである。
けれども庸之助は、ブルブルしながらも辛抱をした。そういううちにあっても、揺がない自分を保つことが、真実の修養なのだというのが、彼の確信であった。
ところが或る晩、ショボショボ雨の降るときであった。
妙に骨を刺す風と、身にしみ入る雨水の冷たさで、体中かじかむほどになって、腹を減らしながら庸之助は、帰りたくもない合宿所へ戻って来た。
油障紙を明けると、濁った灯の光に照らされて、脱ぎ散らした草鞋《わらじ》や下駄で一杯になっている土間を越して、多勢が車座になって、酒を飲んでいるのが見えた。
「悪いときに帰って来た!」
庸之助は、つとめて皆の注意を引かないように、隅の方で足を拭くと、そこそこに膳に向った。寒さで好い加減冷えている彼は、冷たい飯を食べると、歯の根が合わないほどになった。頭の下の方が、強直して来るような気さえして、ボッとする酒の香いが、しみじみとこたえた。絶対に禁酒してから、まだ一ト月ともならない彼の味覚は、はっきりその快い酔際の味を覚えている。が、おくびにもそんな気振《けぶ》りは見せなかった。彼等に知られるのが厭で、装うた無頓着さが、彼の態度を忽ち、ぎごちなくした。
カチカチな干物をほごしていると、今まで何も知らないようにしていた仲間の一人が、
「オイ、一杯よかろう?」
と突然|猪口《ちょく》をさしつけた。多勢の酔った声が、呑め呑めとわめいた。
「いやいらない」
「まあそんなに意地を張らなくたっていいやな!」
「飲みてえって、顔に書いてあらあ! ハハハハ!」
「ハハハハハハ、偉いよ!」
面白そうに嘲笑う者達を、庸之助は鋭く睨み返した。
「何で飲むもんかい!」
彼は、鼻について堪らない酒の薫りを強いてまぎらせながら、さっさと飯をしまった。そして隅の方へよって、揉みくちゃになって放ってある新聞を見始めた。けれども、実は見る振りをしたのであ
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