のであった。
お咲は、咲二を人の物笑いにさせたくなかった。どうぞ立派な人、せめては人並みにだけさせたいばかりに、禁厭にすがった。命より大切な子を、とんだことにした心痛のあまり自分まで物狂おしくなる。「自然は彼女等に、母親の愛情――その子のためには、何ものをも顧りみない熱情――をあまりに強く与えてくれすぎた」浩は堪えられない心持がした。二人の狂人を今日|出《いだ》すまでには、もう幾年も前から、目にこそ見えね準備されていたのである。
彼は全く辛かった。不幸すぎた。
「けれども、俺は立ちどまることは出来ない! あくまでも進まなければならないのだ。勇ましく、しっかりと、お前は男だ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
涙が、いくら押えようとしてもこぼれた。遣るだけは、岩にかじりついても遣り通さずにはいられない彼の心が、励ましであり、苦しみであった。
自分の前途において、出会わなければならないどんな運命も、臆病に回避しようとは思わぬ。けれども……。
自分に期待されている――家を継ぐべき者として、そのことは当然なこととして、他の周囲からは考えられている――と思うと、浩はこわくなってしまった。どこまで責任を持てば好いのか?
十七
自分等のごく僅かな家族の中から、二人まで発狂者を出したことは、浩に或る深い疑惑を起させたのである。幾代か前の祖先で、気の違った人はなかっただろうかということが、非常に考えられ不安でならなかった。父親には、病的な精神欠陥がないというだけでは、恐ろしく微妙な遺伝の証明にはならぬ。たくさん生れた同胞達《はらから》が、皆早死にをしたのも、そんなことが原因になっているのではあるまいかとも考えられる。浩はほんとうに恐ろしかった。
「若し万一そういうことがあれば、どうすれば好い? 俺は不安だ! 考えると堪らない!」
けれども、浩は働かなければならない。その日の来るまで、彼の仕事をしつづけて行かなければならないのである。今ここで臆測してみたところで、解ろうはずのことでない、その万一の遺伝が現われるかもしれぬ日を怖れて、それまでの、どのくらいかの時間を空費することは彼には出来なかった。また、一方からいえば、万一遺伝されているかもしれぬと同様の万一さで、自分が除外例の者となっているかもしれない。きっとそうでないとは、誰が断言出来よう? それほどどちらも万一のことなら、出来るだけ明るい方面を見て進むべきであるのは、考えとしては解っている。けれども、気が狂ってしまった自分の姿を想像すると、静まったはずの心もとかく乱された。苦しくならずにおられなかったのである。
今まで無意識に過ぎていたいろいろの精神作用――例えば人なみより強いと思われる想像力が突拍子もない幻影を見ること、ゴム風船を危かしくてふくらがせないような心持――が、皆病的ではないのかと案じられ始める。今にも微細な頭の機関が、コトリと調子を脱してしまいはすまいかと思われたりして、暫くの間浩は、非常に神経過敏にされていた。夜も、急に不安に襲われて飛び起きたきり、眠られないようなことさえあったけれども、日常の、厭でも応でも頭脳を秩序立てさせる事務が、いつとはなし自然にそれ等のことを恢復させた。
日を経るままに、かなり冷静に考えられて来るようになると、或る程度まで、精神的の訓練を積んでいれば、多少の遺伝的精神欠陥も、補って行けるものであることが解って来た。
「生れた以上は、生きている以上は、その間だけ雄々しく過さねばならぬ。辛かろうが、悲しかろうが俺は堪える!」
浩は、このごろしばしば彼《あ》の「気」を感じた。感激の涙に洗われては、彼の心が引き立てられた。そして、ほんとうに自分の運命を知って、立派に遣るだけのことは遣りとげた男として、自分のことを想うと、すべての苦痛を堪えるに十分な勇気が強く内心に燃え立ったのである。
それから四五日立った或る晩、浩は外出したついでに、庸之助に会うつもりで――交叉点へ行ってみた。いつもいる辺へ行ってみたが姿がない。あちらこちら捜しても見当らないうちに、時間もおそくなりして、そのときは已むを得ず帰って来たものの、彼は妙に心配であった。病気なのじゃああるまいかと思ってみたり、何か電車のまちがいがあったのではないかとまで思った。けれども、訊いてみるところもなく、自分の暇もないので、思いながら二三日費して、或る晩また行ってみた。そのときはもう、見えないどころではなく、株でも譲られたらしい一人の老人が、
「ア夕刊、ア夕刊!」
と小さく叫びながら、淋しげに動きもせず鈴を鳴らしていた。
失望しながら浩はその爺に訊いてみたが、解らない。
「お前さん、今時の若い者が……クフン、クフン、いつまで夕刊売りをしていますかい。大方どこぞの職人に
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