ニョキッと現われてブクブク、ブクブクと際限もなく大きくなって行った。彼はほとんど無意識に「かげが出る。かげが出る……母さん」とつぶやいた。彼の眼は開いたなり、もう何も見えなかった。張りつめ張りつめていた彼の神経は、最後の恐怖に堪えられないで、とうとう絶たれてしまったのであった。

        十六

 ただ癒してやりたいばかりで何事もした家中の者は、皆失望し、やがては絶望した。魂が抜けたようになって陰気にジッとしたまま、折々爪の間を見ては、「かげが出る……かげが出る、母さん!」とつぶやく咲二の姿をながめると、お咲は狂気のように歎いた。
「俺は始めから、あんな禁厭のような、まやかしものは役に立たんと云っておったのだが……」
 うっかり、孝之進が洩したこういう言葉の端から、今までかつて一度もなかった浅間しい、親子喧嘩などまでしばしば起った。
「御自分だって一緒になって、泣いてこわがる咲二を押えつけたり叱ったりなさったのに、今になると私ばかりせめるなんて、あんまりですわ。誰だって皆悪かったのよ。父さんだってあのときは、癒るかもしれないとお思いなすったんでしょう? 私だって――私だって、ただよくして、よくして遣りたいばっかりだったんだわ」お咲は声を上げて泣き伏した。
 見ている孝之進の目にも、思わず涙が浮んだ。「泣いたって始まらん」と思いながら、云うままにならない涙が容赦なくこぼれ落ちた。
「まあまあお前、そうお泣きでないよ。ね、決して誰を恨むものじゃあ、ありません。皆前世からの因縁事なのだからね。ああ、ああそうだとも、皆因縁ごとだよ。もうこうなった上は、ただよく諦めることが肝心だよ、ね。お咲。一旦きっぱり諦めがついてさえしまえば、どんなことでもそうは苦労にならないものさ。ねお諦め、さ泣くのをやめてね」
 おらくは、泣き沈んでいる娘の肩を、震える手で優しく撫でながら、無意識のうちに数珠をつまぐった。
 こういう気の毒な場面が、一日に幾度となく繰返された。お咲は、東京の良人のところへ何と詫びを云ってやって好いか分らなかった。良人に済まないのはもとより、お咲は息子に対しても、何と云ってあやまって好いか分らないことをしたという苦しみにせめぬかれた。「どうぞ堪忍《かんにん》して頂戴、咲ちゃん!」朝起きると、夜寝る迄時をかまわず、彼女は息子の前にお辞儀をしては、涙をこぼした。そして、自分があんなに癒してやろうと思った誠意から、ほんとうにただ一つの真心から、こういう結果を引き起したということが、一層彼女の苦労を増させたのである。
「これというのも私共が貧乏なばっかりに起ったことだ。立派なお医者様にかけられる身分なら、誰が大事な独り息子を、禁厭《まじな》ってもらいなどするものか! 貧乏だと思って皆が、虐《い》じめるからこんなことになってしまったんじゃあないか!」
 精神過労が、彼女の病気を悪い方へ悪い方へと進め、終日発熱したままで過ぎるようになると、感情はますます興奮して、ヒステリー的になった。咲二のことを云い出すと、誰彼の見境いなく、「あなたもあれをいじめて下さったんでしょう」とか「おかげさまで、あれもとうとう気違いになりましたよ!」などと云っては、喧嘩を持ちかけた。
 咲二が変になって、三日とならないうちに、お咲はまるで見違えるほど、※[#「うかんむり/婁」、179−7]《やつ》れた。不眠症にかかって、眠りの足りない青い顔に、目玉ばかり光らせている彼女の頭は、次第に平調を破って来た。幾千もの豆太鼓を耳のうちで鳴らしているようで、人の声が何か一重距てた彼方に聞え、石炭殻を一杯つめたように感じる頭を、ちょっとでもゆすると、ガサガサと一つ一つになったたくさんのものが、彼方の隅から此方の隅まで、ドドドドーッところがりまわる気持がした。五つか六つの子のように、オイオイ泣くかと思うと、直ぐ止めてきょとんとしながら、咲二と並んで、のんきそうに空をながめていたりした。
 その朝は、おそろしい上天気であった。深い朝露――霜にはまだならない、あのたくさんな露――でキラキラ光り輝やいている、屋根から木立から落葉まで、ほとんど一睡もしなかったお咲の心には、あまり刺戟が強過ぎた。彼女は呆然瞳をせばめて、靄《もや》のかかった彼方を眺めていると、不意にどこからか咲二が来て耳元で「かげが! かげが※[#感嘆符二つ、1−8−75]」と叫んだ。彼は平常になく腰を折るほどに力を入れて、歌うように調子をとってどなったのである。お咲は、ハッと気がはっきりした。そして咲二の顔を見、声を聞いたとき、彼女の心のうちには、彼の日の記憶――咲二が昏倒したときの場面――が、スルスル、スルスルと繰拡げられた。名状しがたい感情の大浪が、ドブーンと吼《うな》りを立てて打ちかかって来た、その刹那、彼女
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