始めて禁厭をするとき、彼は、手足をじたばたさせ、気違いのようになって抵抗した。で、何にしろ家中の大人がかかって彼を押えつける。そのうちに、いかなときでも自分の嫌いなことをかつてしたことのない母親――お咲――の混っているのを見ると、彼は争う力もないほどがっかりもし、恐ろしくもなった。殺されそうな声で泣き叫びながらもがくのを、情ないやら、腹立たしいやらで、ごっちゃになった孝之進が、
「誰もこわいことはせぬ。静かにしないか! 馬鹿な奴じゃ!」
と叱りつけながら、帯際をとって、彼の膝元に引き据えようとして、一生懸命に力を入れた。
水をたたえた鉢、硯と筆、杉箸、手拭などが用意され、一かたまりになってごたごたしている者達の前で、禁厭使いはわざとらしく落着いて咲二の静まるのを待っていた。
「強いかげがいると、私の顔を見ただけで、なああんた、もうそういう風にあばれるでな。かげがいやがるもんと見えますなあ」
「おじいさんの病気もかげのせいかもしれませんな、おいくつになんなさいます? え? 六十六かいな。そんならかげ六十と云うているからもう六年前にかげは消えたはずですがなあ」
長い間泣き放題にさせられて、幾分か疲れたとき、咲二はむりやりに、禁厭女の前に坐らされた。
皆の注目の焦点になって老婆はいよいよもったいぶった。彼女は一同に辞儀をしてから杉箸を割り、一本をとって水の面に何か書いた。天照皇太神宮を中央に十五体の神の名を書くはずなのだけれども「もう年をとると何でも面倒になるし、字は忘れるし。御免なさりませよ」と心のうちで弁解して何か解らないものを、ごちょごちょと書くように手を動かした。咲二の手をその水で洗わせ、すっかり拭いてから、右の掌に六つ字を重ねて真黒に書きつけた。
「ホラこうするとかげが出ますぞ。指の先からでも足の先からでも、顔からでも、頭からでも、白い細いかげが、さわさわ、さわさわと這い出しますぞ」
何だか思いこんだような調子で云う禁厭使の声が、泣くのをやめて、好奇心と恐怖の半ばした心持でいた咲二の心を撃った。「指や顔からむしが出る!」彼はまたたまらなく気味を悪がった。そして云われる通りに指の先を見ていた。そうすると全く、陽炎《かげろう》のような虫が上げた指の爪の間からフラフラ、フラフラと立ち上った。
「出た! 出ましたよ、まあ!」
大人達も幾分意外だというような顔が、咲二の指の先をながめた。
「術、術でありますよ。術というものは、恐しい利益《りやく》のあるもんでなあ。ほれね、出ますだろう? なかなかふんだんに出ますわなあ」
咲二は息もつけなかった、婆が鬼のように見えた。こわくてこわくて、済むや否や転びそうになって、逃げ出したまま、永いこと家へ入らなかった。戸棚をあけでもしたら、さっきの婆がまた飛び出して来そうな気がしたのである。
その日一日咲二はどうにかなってしまったようにおとなしかった。壁土を食べるのも見つけられなかった。それ故、家の者達はもう利いたのだと思った。うすうす馬鹿にしていたのがもったいなかったとさえ思わせた。どうにかして、自分の寿命を縮めてもいいから、咲二を人並みにしたいと腐心しているお咲は、天にも昇る心地がした。これでなおってくれれば、何という有難いことだかと、あのきたなく、いくらか臭くもあるらしい婆が神様より尊く思えた。ヤレヤレと心から思った。そしてその晩は、傍に寝ている咲二がうなされて泣き出すのも知らずに熟睡した。自分の体の工合まで、はっきりと引き立ったようにまで感じられたのである。
二日三日と禁厭がされるうちに、咲二はこの一日に一度の攻め苦は、とうてい不可抗的のものであると、観念した。禁厭が始まるごとに、彼は一種の軽い幻覚状態に陥り出した。が、誰も知らなかった。十の指の先からは、集めたら、どのくらいになるか分らないほど、たくさんの「かげ」が、さわさわ、さわさわと出た。
四日目の日は、眩ゆいほど好いお天気であった。今日でお仕舞いというので、すべてが念入りに行われた。
いつもの通り、十の指の先から、かげが湧き出した。けれども、どうしたことか! 今日は今までよりも倍も倍もたくさんのかげが、透き通る細い蚯蚓《みみず》のような形をして、ほんとうにさわさわ、さわさわと音まで立てるほど、同じようにまがりくねって後から後からと湧いて来るのを、咲二は見た。恐れで心が寒くなった。ところへ、「ホラ! 御覧なされ。今日は頭の地からも出て来ますわな。ホラ!」という禁厭使いの声を聞くと同時に、咲二は自分の体の中から、千も万もの細い細い糸が、絶え間なくスルスル、スルスルと引き出されているような感じを得た。彼は体の「なかみ」がスーッと空っぽになったと思った。そのとき、咲二の目の前には真白で大きく太った、目も口も鼻もないものが、
前へ
次へ
全40ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング