知るものはなかった。が、ともかくお咲が見つけたのだけでも、今度で四度目である。一番最初には、茶の間の隅で、何だかしきりに食べている彼の口のまわりが、泥だらけになっているのから、気のつき出したことであった。
何だか並みでないところのある息子を、どうぞ一人前に成人出来るようにと、全力を尽しているお咲は、どんなに情けないか分らなかった。恥かしくって人にも聞かされない。行燈《あんどん》の油をなめるものがあったという話を思い出すと、たまらなかったのである。
「何という情けないことだろうねえ。咲ちゃん! お前はどうして母さんが、こんなにいけないと云うのに聞き分けないの?(お咲は急に声をひそめて、彼の耳の辺でささやいた。)壁を食べるなんていうのは、お乞食《こも》だってしませんよ。どうぞ止めて頂戴、ね? 母さんこうやってたのむわ」お咲は泣きながら、咲二の前に跪《ひざま》ずいて、両手を合わせた。けれども彼はけろんとしていた。お咲は突っかかって来る悲しみを、押えきれないで、塵《ごみ》くさい咲二の足につかまって泣き伏してしまった。それでも咲二は、涙を浮べさえしない。ただぼんやりと、近くの停車場から聞えて来る汽笛の音に聞き惚れていた。
浩は、ただ一度、小石川からまた聞きに姉の様子を聞いたぎりなので、心もとなく思っていただけで、咲二が壁土を食べる癖などを知ろうはずはなかった。父親の工合もあまりよくないところへ、お咲親子が行ったので、おらくが、どのくらい家計の遣りくりに心をなやましているかが思いやられた。小石川へ行って僅かでも、お咲親子がこちらにいれば当然かかるべき費用の幾分かを、国許へ送ってもらおうかとも思ったが、それも云い出しかねて、彼は血の出るような倹約を始めた。出来るだけ水を浴びて、湯に行かないこと。本や紙をほとんど絶対に買わないこと。ときどきはほんとうに涙をこぼしながら、彼はせいぜい切りつめた生活をした。それでも、一月の末に現われて来るものは、ごくごく僅かであった。息子から来る、三円六拾三銭などという為替を見て、孝之進始めお咲まで口が利けないような、心持にうたれることもあった。孝之進はもう憎いどころではなかった。心のうちでは有難いとも、忝《かたじ》けない可愛いとも思ったが、一旦「勘当した」と明言したことに対して、彼は自分の方から一本の手紙も出すことは出来ない。遣りたくて、むずむずしても意地が承知しなかったのである。そのかわり、浩からの便りは、たとい一片の端書でも、彼は目で読むというより、むしろ心全体で含味するというほどであった。紙の表から裏まで、繰返し繰返しとっくりと見る。考える。批評して「なかなか生意気なことを書きおるわい」と思うと、我ながらまごつくくらい涙がやたらにこぼれる。そして誰が何とも云いもしないのを、「年をとると、とかく目が霞む、目が霞む」と、自分に弁解していたのであった。
浩の方でも、このごろになっては父親がどんな心持でいるかというのを、すっかりさとっていた。孝之進あてにした手紙でも、為替でも、皆滞りなく受取られるのを思うと、嬉しいながら、妙に頼りない心持がした。どうにかして、もう僅かばかりらしい余生を、せめて楽にでも送らせて上げたいと、しみじみ感じた。けれども、自分の最善を尽したより以上のことを、望むことはとうてい出来ない。特別の報酬を得る目的で、夜業などをすることさえあった。
十五
どんなに案じようが歎げこうが、咲二の奇癖はつのって行くばかりである。度重るうちには、自然と他人にも見つかって、噂が噂を産んだ。そして、平常孝之進が、幾分尊大なところから、あまり好意を持っていない者などは、畜生のようだなどとまで云った。お咲にとっては、それが何より辛かった。子供の行末のために、解けない呪咀《じゅそ》が懸けられるような気がした。また時にはほんとに、誰か呪釘でも打っているのではあるまいかと、人知れず鎮守の森やお稲荷さんの樹木などを一々見てまわったりさえした。が、もちろんそんなはずはない。咲二が可哀そうなのと、悪口を黙って堪えていなければならない口惜しさに、お咲はジッとしていられないほどに心をなやました。心配しぬいた揚句、皆はとうとう「かげの禁厭《まじない》」――むしの禁厭――をさせることにした。禁厭使いの婆は七十を越して、腰が二重になっている。白い着物に、はげちょろけの緋の袴、死んだような髪をお下げにしている、この上なく厭な彼女の姿は咲二を異常に恐れさせた。
「お祖母ちゃんの、鐘から出て来たお化けだよーッ! 僕いや、母さん! 僕こわいよーッ!」(咲二は、おらくが一日に度々鳴らす仏壇の鐘の音を、この上なく厭がっていた。そして実際、彼の異様な神経は、その音響から自分の想像している化物の姿を見るようでもあった。)
前へ
次へ
全40ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング