は急にお腹の下の方から、真赤に燃えさかっている火の玉が、グングン、グングンとこみ上げて来るのを感じた。熱い! 熱い! 体が焦げそうだ! 苦しい。火の玉が上って来るに連れて、体中が、ちぎれちぎれに裂けてしまいそうだ。息がつまる。あ! 胸の下まで来た! 中頃まで……。お咲は苦しまぎれに夢中になって、その恐ろしい火の玉を吐き出そうとした。胸をかきさばいたり、喉に指を突込んでかきまわしたりした。体中であばれまわった。が、玉はずんずん上って来る。グングン、グングン火を燃やしながら上って来る。ああ苦しい、あ! 死にそうだ! お咲は両手で口中を掻きまわしたが、とうとう火の玉が喉までこみあげてしまった。息がつまる! 体中燃え立つ!……。お咲は気が違ってしまったのである。
 咲二のこと、次でお咲の容態を一時に知らされた浩は、どうしてもほんとにされなかった。それほど僅かの日数の間に人一人が気違いになるということは信じられなかった。彼は小石川へ聞きに行った。そこにもまた浩の得たと全く同様な驚愕と憂慮が漲っていた。突然に起って来たあまり不幸過ぎる事件は、皆の心に疑念を起させて、もう一度こちらから、孝之進に訊き正しのような手紙を発送させたのである。
 出来るだけ委《くわ》しくと、なおなおがきの付いた手紙を受取ったとき、孝之進はお咲を入れて置く部屋の準備にせわしかった。家族以外の者さえ見ると、荒れ騒ぐ彼女を、一番奥の一間に監禁しようとしていたのである。部屋中の器物を皆持ち出して、踏台をあちらこちら持ち運びながら、彼は釘、鋲などと、どんな小さいものでも、およそ表面の突起となっている物という物を抜き取った。武器になりそうなもの――若しかすれば彼女自身に向って振うかもしれない――を、細心な注意を用いて、取りのぞいた。
 お咲をそこに入れて、四枚の仕切りになっている板戸の前に、自分の床を持って来て番をするつもりなのである。戸にはうちの見える一尺ほどの無双が付いていた。老人の力で、それらの仕事を三日もかかって仕上げると、孝之進はさり気なく、娘をその部屋に連れ込んだ。そしてあちらから明けないように、板戸に心張棒をかったとき、愛する者の棺に釘をうつときのような哀愁が、彼の心を押し包んだ。
「さて俺がここで番をするかな」
 戯談《じょうだん》のように軽く云おうとしながら、口を動かすと、さも悲しみ疲れているらしい重い、弱々しい声が洩れた。咲二を縁で遊ばせていたおらくは、悲しそうに頭を振って数珠を揉んだ。
 東京へ返事を遣るに就いても、彼はずいぶん頭を悩ました。浩へ手紙を出すにはこの上好い機会はない。ついいそがしいのにとりまぎれたようにしてやれば……。孝之進は散々、迷いぬいた末とうとう最初の思いつきを決行した。きわめて何でもない心持でいるつもりでありながら、「浩殿」と書くときに、妙な感じが心に起った。筆が思うように動かないで、やや画の不明な幾行もの字の終りに、「浩」というのばかり丁寧に念を入れて書かれたように見えていた。

 秋もだんだん末になって来た。肌寒い或る晩、机に向っている浩の目には、ちょうど窓前の空地にたった一本ある桜の若木が眺められた。青く動かない空の前に、黒く浮いている葉が、折々風の渡る毎に、微かな音をカサカサと立て、今散ろうとする小さい朽葉が、名残を惜しむように、クルクル、クルクルと細い葉柄一本に支えた体中で、舞っているのなどが見えた。
 鉛筆を握ったまま、ぼんやりと葉の運動を見ていた浩は、そのときフト、頭の傍の電燈の方から、何か小さいものが、ちょうど塵のように落ちて来たのを見つけた。古手帳のやや黄ばんだ紙の上に、音でないほどかすかな音――何か落ちるということの素早い連想ばかりで感じられるような――を立てて来たのは、一匹の小さな小さな虫であった。
 体全体の長さが、鯨尺の一分にも足りない、針の元ぐらいの頭に、ようようこれが眼かしらんと思われるものが二つついている。見れば見るほど、小さいながら、調った、美しいというに近いほどの体形をしている。けれども、どうかしてもうすっかり衰えきって、三対あったらしい脚も、二本は中途から折れて、胴の傍に短かく根元がついている。すべてが、実にこまかく、きゃしゃにまとまっている。まるで生きていられることさえ疑われるほどである。が、羽根が見えない。紙の上に目を摺りこむようにして見ると、虫は仰向けになって、落ちて来たらしい。細い体に敷かれて、半透明な羽根が僅かばかり覗いていた。
 暫くの間虫は脚一つ動かさず、非常に静かにしていたが、やがて急に、真中の一対の脚を高く振りかざしながら、ごく狭い範囲――拇指を押しつけたくらい――の中を、頭を中心にしてぐるぐる、ぐるぐると動きまわった。
 実にかすかな、小さい運動ではあるが、虫にとっては大変に
前へ 次へ
全40ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング