したからね。やすい代りに、台所が共同なんでね」
 少し笑い顔になって、その不便もあっさり認めている調子である。
 そのアパートのすぐわきが、雑司ケ谷墓地の裏口で、どこか植木屋の庭のはいりくちめいた様子の小門があいていた。それがちっとも陰気でなくて、角の花屋の軒下においてある線香の赤い紙の色も、陽を浴びて艶々している手桶の樒《しきみ》の青葉とともに、却ってそのあたりに一種静かな賑やかさをかもしている。
 どことなしかわった趣のあるその界隈の様子は面白く、ひろ子はそれにさそわれて墓地を抜けようとしたが、思いかえして、同じ通りを三つまた迄もどり、さっきの電車どおりに沿った雑木林の中を行った。
 いずれはまるでちがったところになってしまうのだろうが、今はまだこの雑木林の中に、一本ひろい砂利道が通っているばかりであった。うしろから来る自転車のベルは、砂利をはじく音とともに枝さしかわしている欅の高い梢の方へつたわってゆく。去年の落葉の下に湿っている土の匂い、新芽だつ樹液の香りなどが木の間に漂っていて、これが市中であるだけ一層鋭く目をさまされる野外の感覚に浸りながら、ひろ子はゆっくり省線の駅に向って
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