けた。
「ちょっとうかがいますが――この辺にアパートありますでしょうか」
「さああることはありますがね。なんていうんです?」
「それをつい忘れたんですけれど。――こっちの道を」
と、ひろ子は道の奥に欅《けやき》の梢が群らだって見えている一筋の街へ心をひかれて、
「先へ行ったところにないでしょうか」
「ああ、そんなら雑司ケ谷荘だ。じゃあね」
と、そこで教えられたままに行ってみると、その道へは目かくしをうった水色ペンキの横が向っていて、雑司ケ谷荘というアパートの入口は、角をぐるりとまわったところにあった。
往来と同じ高さのなりに薄っ暗い建物のつき当りまでつづいている三和土《たたき》の入口のとっつきに、土足のままの上り下りによごされた階段がそばだっていて、明るい戸外に馴れた目で入ったばかりではそのあたりのドアの様子さえよく見えない感じであった。白シャツにカーキ・ズボン、板うら草履の男が、バケツを下げて出て来た。ひろ子が空室をきくと、
「ここ当分うごく人はありますまいよ」
元は職人ででもあったような、さらりとした口ぶりでその管理人は返事した。
「ここはやすいからね。新学期でどっとふさがりま
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