が重くぽってりと、色つやのさえない、しかもどこか鋭い保の容貌は、カーネーションの美しい体温のない充満の中で人間の肉体や心の分厚い存在を伸子に感じさせた。おとといは、薫りの雲がみちみちているように感じられた温室の内部が、きょうは花のつくられている温室、という現実的な手堅い感じで支配された。
保は、
「シクラメンはおやりになりませんか」
ときいた。
「今年はやりません。鉢ものですしね」
「ああ、そうね」
そういう問答の内容は伸子にわからなかった。
わからないことだらけの竹村と保の話を、伸子はむしろ満足してききながら、長いこと温室にいた。保が辞退するので、住居の方へはよらないで、帰途についた。
平静な保の表情から、伸子は、温室を見たことがうれしかったのか、それほどでもなかったのか、よくわからなかった。
「保さん」川ぶちの道を歩きながら、伸子がきいた。「どうだった? あんなの平凡?」
「僕、よく出来ていると思う。――でも、あれだけつくるのは、割合やさしいよ」
保は、先頃、父につれられて大磯のある富豪の温室を見て来た話をした。そこでは主としてメロンと蘭などがつくられていた。
「姉さん、メロンておもしろいよ、むずかしいけれど。僕だったらメロンやる」
円天井の大温室の中で、網に吊られた大小のメロンが、熟す順に番号をつけられて青く美しくみのっていた光景を、保は活溌に話してきかせた。
「みんなとてもいい出来だった。カンタローブの網目なんか、とてもこまかくて」
保は子供らしく、
「メロンやりたいなあ」
そういって、和毛のかげの濃い口元をほころばした。
どっちみち、保は愉快そうになっている。伸子はそのことで満足した。けれど、別の思いもあった。伸子としては、自分に分相応の環境の中から、せめて保がよろこぶかと思って竹村の温室見物を思いついて誘った。保は、誘いをうけとり、見に来たけれども、それより前伸子の知らないうちに父とドライヴをかねて大磯へ行き、日本にいくつと数えるような贅沢《ぜいたく》な温室を見て来ていた。
このことは伸子に、盆暮れや誕生日に、母におくりものをするときの心持と似かよった心もちをおこさせた。かさばって、ぎょうぎょうしいものばかり貰いつけた生活で、伸子がおくるささやかな品は、多計代に品物としての刺戟を与えないようだった。両親の銀婚式のとき、伸子としては奮発して、小さい銀の花瓶をもって行った。そのときはよろこんで、箱の上に出して眺めたが、十日ほどたって行ったときには、もうその辺に見えなかった。
「花瓶どこへ行ったの?」
伸子がきくと、多計代は、
「その辺にないかい?」
菓子箱や罐がごたごたと置いてある座敷の隅を、坐ったままひとわたり目でさがした。
「ないねえ、どうしたんだろう。せっかくお前がくれたのに……」
それは、せっかく娘がくれたものだのに、という心持よりも、あんなものでも、ともかくお前がくれたものなのに、というニュアンスで響いた。手袋をもって行ったときも、財布をもって行ったときも、多計代の礼をいう調子から伸子が感じたのは同じことだった。そして、寂しかった。
保は、伸子が育った時分の質素だった佐々の家庭とはまるで違って来ている経済事情や社交の空気のなかに大きくなって、多計代が、数年このかた身につけはじめた変な無感覚さを、自覚しようもない少年から青年への毎日の生活でわけもっている。伸子は、何かの拍子に、冗談のようにいったことがあった。
「わたしの力では、とてもお母様がよろこぶようなものは買ってあげられないからね、親孝行のしようがないのよ。仕方がないから、せいぜい理窟をこねてね、お母様が買えない議論というもので親孝行でもするしかない」
保の生活は無垢ななりに、離れて暮している姉の、単純でひとり立ちの生きかたとは、ずっとかけはなれた環境におかれている。そういう具体的な点を一つ一つたしかめて来て、保の部屋の入口の鴨居にはられているメディテーションという字を思い出すと、伸子は辛かった。自動車でドライヴして、そんな大温室を見られる条件はある。けれども、メディテーションと貼紙している保の若いおさない心に、どんな葛藤がかくされているか、それをその生活の中にあって、見守ってくれるような大人の精神、本当の思いやりというものは、保の生活のまわりにはない。
この間動坂へ泊った朝、おそい朝飯に多計代と二人きりだったとき、伸子は保の貼紙のことを話した。多計代は、保がそんなに純真で、真面目なのだから、間違いないということばかりを強調して、伸子の不安にとり合わなかった。私に保のこころもちは、本当によくわかっているんだから、といった。
「そうかしら……」
伸子は、暗い眼をした。保は前の晩に、なんと云ったろう。
「お母様、なぜだろうね、越智さんが来るときっと洗面所へ行って白粉をつける」小さい子のように姉にそういいながらも、母には「お母様、なぜ」と、そのことについてじかにはきかない二十歳の保の青春には、母にわかっていない複雑さがある。多計代は、どうしてこんなに簡単に、保のことは隅から隅まで自分にわかっていると思いこんでいられるのだろう。
しかし、保のなかには伸子の生れつきとはちがったものがあって、姉と弟という以上に、保は伸子から自分をへだてているところもある。
思ったより早くかえって来た姉弟を見て、
「どうした」
素子が意外そうに出て来た。
「留守だった?」
「いいえ。温室は見たのよ、ね保さん。でもうちの方へはよらないで来たから」
出がけにこだわった気分をかえて、素子は二人のために食卓の世話をやいた。
食後、素子がその頃流行していたダイアモンド・ゲームを出して三人で遊ぼうといった。保は、
「僕、やったことがないから……」
とことわった。
「やったことがないって」
眼を見はるような表情で、素子は、
「こんなもの!」
そこへ、赤、黄、青と小さくコロコロしたコマをあけた。
「子供のやる遊びですよ。出来ないなんてことあるものか」
「――でも、僕やったことがないから……」
とうとう、保はその遊びをしないで、間もなく帰って行った。
「あのひと、どういうんだい、おそろしく変ってるね」
送り出したかえりの廊下で、素子があきれたようにいった。
「あんな高等学校の学生ってあるもんか。――あんなじゃ一人前になれやしないや」
素子の観察は、伸子に同感された。しかし素子が自分では感じていないもう一つの原因も、保の気分を支配したように思えた。パイプをくわえたままの顔を横に向けて、御飯をよそってくれ、袂の袖で腕ぐみをする素子のものごしや口調は、女を少女らしい特徴で意識しはじめている保の感覚にきっと居心地わるかったのだろう、と。
九
なか三日ばかりおいた午後、不意に竹村が訪ねて来た。しとしと雨が降っている日だった。机について翻訳の仕事をしていた素子が、
「不意に――どうしたのさ、用ですか」
面倒そうに縁側に目をやった。竹村は玄関にまわらず、柘榴の樹かげから庭へ入って来ていた。
「渋谷まで出かけたもんだから……いそいでかえっても、この天気じゃ仕事がないしね」
こっちの部屋の机のところには伸子がいた。やはり机に向ったまま、
「この間はどうもありがとう」
保に温室を見せてもらった礼をいった。
「どうしまして……」
素子があがるようにいわないので伸子も黙っていた。
「――一服させて貰うよ」
玄関から竹村はひとりであがって来て、素子のいる座敷の敷居ぎわへ自分で座蒲団をもち出した。素子はそのまま仕事をしている。伸子はとよ[#「とよ」に傍点]にお茶をたのんだ。竹村はその辺にあった雑誌をよんでいる。
そのまましばらくの間三人は黙ってばらばらにいたが、伸子にはそれが気づまりだった。そんなに放り出しておくほど竹村にたいして日ごろ内輪のつきあいをしているわけでもない。素子の声にもそぶりにも竹村が予期しないとき来たのをよろこばない調子が見えている。竹村の方ではまた、その感じをどこかでおしきろうとしているところがある。どうせ落ちつかなくなってしまった伸子は机をはなれて、隣座敷へ出て行った。
「どうして? もうあのカーネーションはみんなきってしまったの」
「いやまだ三分の一ぐらいのこしてある。――何君といったっけな、君の弟さん」
「保」
「ああ、保君か、案外くわしいんだね。玄人だよ。土の配合なんかすぐ当てたよ」
「小学校の時分からすきでやってるから」
素子が、腰かけている机のところから、
「うるさいじゃないか、なにも出来ゃしない」
といった。
「そうよ、だから仲間入りした方がいいのよ」
茶の間も、伸子の部屋の裏の長椅子の部屋もあいていたけれども、伸子は竹村をそっちへは案内しなかった。うるさがりながら一つ室にいる方が素子の気持にとって自然なのだった。
「仕様がありゃしない」
やがて、素子も卓のところへ来て坐った。共通の先輩であるロシア語の教授が、最近のソヴェト文学について本を出した。竹村と素子は、その本の噂をした。話題はいくつか移ったが、気のりがせず、伸子はしばしば中座した。
とよ[#「とよ」に傍点]に縫いもののつぎきれを出して座敷へ戻って来てみると、竹村があぐらをかいた膝の前に二つ折りにした盤をおいて、
「何だって――ピヨン、ピヨン?」
ヨをピと同じ大きさで発音している前に、重そうな髪を無造作に束ねた素子が腕組みして、むつかしい顔で坐っていた。
伸子は、その光景がなんだか滑稽で、
「出しかけたの?」
と笑った。
「ピヨン、ピヨンて――なんのことだろう」
「ヨをちぢめて飛ぶのよ」
「ピョンと?」
「そうだわ」
盤をあけてみて、竹村は、
「なんだ、これゃダイアモンド・ゲームじゃないか」
素子の顔をみた。
「そうさ」
「そうさ、もないもんだ。まあいいや、どうするんだって?」
ルールを素子が説明し、伸子が赤、素子が黄、竹村が青のコマをもって、一めずつとびながら遊びはじめた。竹村のコマは一列だけとびはなれて前進し、素子の黄色陣地に迫った。
「どうだい、優勢だろう、この次は失敬して入城だよ」
「入城なもんか。あんたの陣に、そんなにぞっくりのこってるくせに。自分の陣からすっかり出きってからでなくちゃ、敵陣へは入れないんですよ」
「なあんだ! そんなことがあるんなら初めっからいっとくもんだよ、本当かな」
「あたりまえさ」
「そうですか?」
竹村は伸子にきいた。
「そうやってるわ、いつも」
「じゃあまア、これでも進軍させようか」
初めての竹村は、青いコマを盤の格子の上にいくつかのこして負けた。二度目に、竹村が、第一列のコマは、相手の陣の境界線の上まで行っていい筈だと主張した。
「そうじゃない、一本手前の線までさ」
「――これはダイアモンド・ゲームなんだろう」
「ああ」
「ダイアモンド・ゲームならそれがルールだよ」
「ダイアモンドだって、これはちがうんですよ、一本手前までしか行けないんだよ」
竹村と素子とは変に熱中して、互の手許を見はりながら競争した。
「そら、ぶこちゃん、もう一つ行けるじゃないか」
「何だ、小癪な。じゃ、こうだ、ほら、ぴょん、ぴょん、ぴょんと!」
段々普通のやりかたをかえて二コマずつとんでいい約束をこしらえたり、逆行していい契約をきめたりした。そしてますます混乱した。
「二コマとんでいいっていうならこうなるじゃないか」
「違うさ、それじゃ斜の線だもの、同じ線の上でなくちゃ」
「だって、こうだぜ、君は強情っぱりだなア」
竹村もそんなことをいう気分になった。
「今更じゃないよ、自分だって相当偏窟のくせに」
「なに」
そして竹村は小さなコマを、盤にめりこますように力を入れてすすめた。
「君は、五黄《ごおう》だろう」
「それがどうしたのさ」
「道理で。――うちの奴も五黄だった。五黄はいかんよ。頑迷だよ」
「――出したのか、出られちまったのか、わかりもしないくせに……」
番がくると、黙ってコマをすすめている
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