、竹村は温室の戸をあけた。素子が入り、伸子も内部へ踏みこんで、思わず、
「まあ!」
 声をあげた。一日じゅう日光の最後のぬくもりまで利用するように建てられている温室は、その時刻に丁度真向うから西日をうけていた。ガラスのまぶしい反射のために外からは見えなかったカーネーションの花の赤、白、ピンク、淡いクリームの色々が、入ってみれば温室いっぱいに咲き乱れている。しめりけのある温い空気は、粉っぽいカーネーションの薫りで満ち、近よって眺めると、見事な花冠をつけた茎のほそくつよく節だった緑の美しさ、やわらかな弾力にあふれてはね巻いている細葉の白っぽいような青さ。外気の荒さに痛められず、伸びて、繁って繚乱と咲いているカーネーションの花弁は美しくて、伸子はそこをかきわけるように入って行った人間たちの衣服の繊維のあらいこわさを、花々にふさわしくないものにさえ感じた。
「ひといろの花ばかりでいっぱいの温室って……はじめてだわ。気が遠くなるみたい」
 温室はそう大きくないのに、同じ花ばかり見てひとまわりすると、そこは限りなく奥深い広いところに思えた。伸子は、薫りに酔ってうるんだ眼になった。
 反対側を竹村とつれ立って見てまわりながら、素子がいっている。
「ほかの花はやらなかったんですか」
「何しろ第一年目だもの……功はいそぐべからず、さ」
「こんなに腕がいいとは思わなかった」竹村は、伸子がたたずんでいる側へ出て来て、それを育て、花さかせた者の注意ぶかい視線で花床《とこ》を見まわりながら、
「案外で、見直したろう」
 素子は、素子らしくきいている。
「この中で、すぐ切れるのは何本ぐらいあるんだろう」
「さあ」
 目算するように、竹村はひとわたり眺めた。
「かれこれ、四五十本というところかな」
 カーネーションは朝早いうちにぞっくらきられて、渋谷の市場へ運ばれるのであった。
 伸子は温室を出ながら竹村にきいた。
「この花がなくならないうちに、わたし、弟を来させてもいいかしら」
 花ずきの保に見せたら、どんなによろこぶだろうと伸子は思った。フレームでやれることはきまっていて、もうつまらなくなったといって、この間行ったとき保は水栽培で紫の立派なヒヤシンスを咲かせていた。
「いいとも。歓迎する」
「じゃ、なるたけ早く来るようにいうわ」
「それがいい。きりどきがあるから」
 別の鍵を出して、竹村は住居の入口をあけた。土間に、テーブルと椅子と園芸用のごたごたがあって、右手が畳じきの六畳、四畳半になっていた。本箱、机、食卓。六畳にそういうものがおいてあって、次の室は寝室としてつかわれているらしかった。鉄金具の古い箪笥が見えた。土間のつづきに炊事場と風呂桶をおくところがあって、炭や薪が田舎らしく積みあげられている。小松菜と細根大根が、ぬいたままで、へっついわきに放り出してある。その明るく簡素な生活の仕組みを見て伸子はおどろく心持があった。素子と暮しはじめて間のないころ、はじめて竹村の家を訪ねたことがあった。よそからまわって、夕方近く竹村のところへ行った。竹村夫婦は、どこかの離室《はなれ》めいたところに暮していて、柴折戸《しおりど》のような門口から、飛石づたいにいきなり座敷の前に出た。軒近くまで庭木が茂りすぎて、土庇の長いその座敷は一層陰気に見えるなかに、気むずかしい顔で、眉の濃い竹村があぐらをかいていた。本がひろげたままおいてある卓が、二月堂だった。長方形の、朱漆で細い線のめぐらされているその卓さえ、気がきいているだけ、よけい座敷の空気を気づまりにしているような感じだった。素子と挨拶したままつい話しこみかけている細君に、
「おい、お茶をいれろ」
 竹村がそう命じた。その声は乾いていて、濃い眉の下で眼がけわしくひらめいた。体裁でつくろいきれないそそけだった夫婦の気分で、伸子は、なぜ素子が自分をつれてここを訪ねたのか、いづらかった。そのとき、竹村は和服を着ていた。伸子の目には、二月堂の卓と趣味の上で一つのつながりがあるように見える変った織の和服をきて、陶器のパイプを本のわきにおいて眉をひきしめていた。
 アトリエのような気分のある、からりとして未完成なこの建物の土間であっち向きにしゃがみ、七輪に火をおこしている竹村は、ひじのぬけかかった鼠色のジャケツを着て、テニス靴をはいている。眉の間に深く刻まれている二本の縦皺はもとのとおりだが、あの暗い座敷にじっと坐っていた竹村を思い出すと、生活の変化がおどろかれた。あの細君を離婚しなくては、竹村のこういう生活の変化もおこりようがなかったのだろうか。庭木の奥の洞穴のような離れで営まれていた生活も、細君が、そうしつらえたというより、はじめは確かに竹村が自分の趣味で、あの座敷も選び、渋いという風なあの雰囲気をつくって行ったのだろうのに、と思えた。
 温室の経営をして、花をあきなって、ロシア文学の翻訳をする男の一人暮しというのも、やっぱり一つの竹村の好みというものではなかろうか。
 建物の外に、ポンプがあって、そこからは畑の起伏と遠い森とが見晴らせた。温室のガラスを焔のようにもえたたせている西日は、溶けたような空の前に遠い森を黒く浮き立たせている。
「なに、ぼんやりしているのさ」
 素子が出て来た。
「すこし歩かせすぎたかな。――じき茶が出るから、こっちで休んで下さい」
 伸子は、六畳のあがりがまちへ腰かけて、土間で働いている竹村を見ていた。
「いずれにしても、一人じゃ、あんまり風雅すぎるでしょう」
 素子が笑いながら竹村にいった。
「なかなかいいところがあるもんだよ、こういう生活も……」
「――もっとも、あんたのその手じゃ、ちょいと細君になりてもないだろうけど」
 土いじりをし、万端の荒仕事をする竹村は火箸をもっている自分の手をちらりと見おろして、
「ふん」
といった。
「手がどうのこうのっていうような女と、誰が結婚なんかしてやるもんか」
 そして、彼のななめうしろに足をぶらぶらさせていた伸子をふりかえった。
「ねえ」
 伸子は、黙っていたが、ふっていた足を一瞬止めた。それはそうだけれど――ねえ、と自分をふりかえった竹村をそのままにはうけつけない感情が、伸子のどこかに動いた。
 竹村がへっついをもやし、素子が土間の七輪で鰺《あじ》のひとしお[#「ひとしお」に傍点]を焼き、伸子が笊《ざる》に入っている茶碗を並べて、むき出しの電燈の下で夕飯がはじまった。
 たべ終って、竹村がレコードを聴こうといい、伸子が、何となし気もすすまないでいるとき、急に、土間の隅で、何か生きものがさわぐような物音がした。
「何だろう、鼬《いたち》かい?」
「鳩だよ」
 土間をすかし見ながら竹村がいった。
「つがいでいたのに雌が逃げちゃって、一羽のこってるんだ。夜ときどき出して飛ばしてやると、面白いね、そこの鏡に自分が映るだろう。それを仲間だと思うんだね、きっと。何べんも何べんも鏡へくちばしをぶっつけるよ」
 古風な大きな飾鏡が、浅い床の間の柱にかかっていて、今はぼんやりとその面に電燈の光をうつしている。男が一人いる夜の部屋の中を白い鳩が翼をはためかして鏡のなかにうつる自分の姿を雌かと思って一心に近よろうとする光景を想像して、伸子は感情を動かされた。
 伸子はカーネーションの花の美しさよりも、夜の鏡にうつる自分の白い影にくちばしをぶつける白い雄鳩の話により深く心を動かされた。けれども、伸子はそのこころもちを素子にも竹村にも話さなかった。二人は懐中電燈をもった竹村におくられて、くらい竹やぶを通りぬけ、宵の口にうちへ帰った。

        八

 翌日、伸子は自動電話で保をよび出した。そして、竹村の温室のことを話した。翌々日が日曜日だった。保は十時ごろ伸子のところへ一旦よってそれから見にゆくときまった。
「ここへよって行くって――誰が案内するんだい」
 電話をかけて帰って来た伸子の顔を椅子の上から素子が見あげて、気むずかしげにいった。
「わたしゃ、そんなお供はごめんだよ」
 伸子は当惑して、素子の椅子のよこに立ったままでいる足をふみ代えた。
「……あなたに行かせようと思っていたわけじゃないけれど」
「ぶこちゃんが、またわざわざついて行こうってのかい」
 そうときめていたわけでもなかった。伸子は保に、あんなにきれいにカーネーションの咲いているところを見せてやりたいとだけ考えた。保をつれて行ってやることなどはひとりでに解決されると思った、というより、とりたてて考えていなかった。素子は、
「なんだ! あんな温室ぐらい」
 そういってわきを向いた。素子は、伸子が大袈裟にさわぎ立てているという風に不快を示している。それは素子の感情的なうけとりかたに思えた。
「わたしがどうというのじゃないのよ。保の部屋の鴨居の貼紙のこと、話したでしょう?」
 伸子は、真面目にいった。
「わたしは、保が心配なのよ。あのひとには、何かしてやることがあるにちがいないのよ。だから、花も見せたいの」
「――ともかく、私はごめんだ……」

 日曜日の約束してあった時間、ほとんどきっかりに、東京高校の黒い制服をきた保が訪ねて来た。多計代のおみやげの、虎屋の羊羮を出した。
「保さん、ここはじめてでしょう」
「ああ」
 保は、目新しそうに庭や竹藪を見まわした。
「きょうは夜までゆっくりしてゆくんでしょう?」
「僕、夕飯までに帰る。――お母様にそういって来たから。……間に合うでしょう?」
「それゃ、間には合うけれど……ともかく行きましょう」
 伸子が帯をしめ直しに玄関わきの六畳へ入ったあとから、素子がついて来た。懐手《ふところで》をして、
「結局、行くんじゃないか」
 おはしょりを直している伸子にいった。
「行きましょうよ、一緒に。保にかわいそうだから――ごたついたりしちゃ」
 そういう伸子の心には、きつい激しい思いがあった。もと佃と赤坂に暮していたとき、丁度夕飯時分ふらりと和一郎が来たことがあった。大震災のあと間もないときで、佃が崩れた小壁に紙をはって働いていた。そこへ和一郎が、姉さん、いる? とのんびり入って来た。佃は、家の修繕などに熱中しないこころもちになっている伸子に対して不愉快でいる感情を和一郎に向け、役にも立たず御飯をたべにばっかり来る、という意味を、和一郎がきかずにいられないような調子でいった。しばらくして、和一郎が、姉さん、僕、帰る、といって、伸子が玄関に出てゆくのも待たず出て行ってしまった。それきり、和一郎は佃の家へ来ることがなかった。
 保に、温室を見せてやりたい伸子の、そのこころもちは、温室をやっている竹村への興味などとは全く別のものであった。口にそういわないでも、素子が拘泥している不機嫌は、その点の勘ちがいである。伸子は、そんなことを弁明するさえ必要ないと思った。保をいじらしく思っている心で行動するのに。――素子にかまわず伸子は仕度を終り、もう一度、
「来て頂戴ね」
 そういって、保のいる座敷へ戻った。
 素子は、決心のつかない表情で伸子が出かける玄関口まで来たが、とうとう来なかった。
 伸子は、保に鵞鳥も見せたいと思い、おととい通った道順そっくりに、白い小花の咲いている灌木の茂みのところを行った。
「いる! いる!」
 伸子はよろこんで、
「ほら、いるでしょう」
ときょうもなきたてる鵞鳥の群を見せた。
「七面鳥は桜山でも飼っているけれど、鵞鳥って珍しい」
 夏休みに行く田舎の家のある村の名をいって、保は伸子と道ばたに並んで鵞鳥を見た。保が、柵の外の道からポンポンと手をうって歩くと、鵞鳥はしばらくそれに平行に歩いて来た。
「お留守でなくて、よかった」
 温室の外で働いている竹村の姿が目に入ったとき、伸子はわざわざ来た保のために在宅をよろこんだ。保は、研究的に、土の混ぜあわせ方の比率だの、温度だのについて竹村にききながら、カーネーションの間をゆっくり歩いている。竹村の、年の割に枯れた皮膚の、眉間に大きい縦皺をもつ顔は、温室に花を育てる人として自然に見られた。けれども、上まぶた
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