二つの庭
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)筍《たけのこ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)段々|生垣《いけがき》や、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)ナジモ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]
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        一

 隣の家の篠竹が根をはって、こちらの通路へほそい筍《たけのこ》を生やしている。そこの竹垣について曲ると、いつになく正面の車庫の戸があけはなされていた。自動車の掃除最中らしいのに、人の姿はなくて、トタン張りの壁に裸電燈が一つ、陰気にぼんやり灯っている。
 伸子はけげんそうな顔で内玄関へ通じるその石敷道を歩いて行った。すると、ゆずり葉の枝のさし出た内庭の垣の角から、ひょっこり江田が姿をあらわした。おさがりの細かい格子のハンティングをかぶって、ゴム長をはき、シャツの腕をまくり上げた手に大きいなめし革の艶出し雑巾をにぎっている。江田は、伸子を見ると、
「や、いらっしゃいまし」
 ハンティングをぬいで頭を下げた。
「こんにちは。――手入れ?」
 伸子はきいた。
「はあ。お留守のうちにすこし念入りにやって置こうと思いまして……」
「きょうは、事務所じゃないの?」
「ゆうべの急行で山形へお立ちになりました」
「あら! そうなの――」
 伸子は、がっかりした声を出した。
「きょうは、お父様のお誕生日だったのよ、だからと思って来たのに――」
 江田は、
「それゃ知りませんでしたな」
 律気者らしく伸子の失望した顔を見た。
「奥様はおいでですよ――お客様のようですが……」
「どなた?」
「さア……越智さんだと思いますが――」
 駒沢の奥からここまで来たことが一層つまらなく思われた。ハトロンに包んだ花を下げたまま、伸子はしばらくそこに立って江田が小型ビインの手入れをするのを見ていた。しばらくすると、江田が、
「伸子さま、ともかくお上りんなったらいかがです、そのうちにはお客さまもすむでしょうから」
といった。
「和一郎さんたちはいるのかしら」
「保さんがおいでです」
 伸子は、まわり道までして買って来たバラの花を飾る場所を失った心持で内玄関から上った。左手のドアがきっちりしまっている。そこは客室であった。いつもは華やかなよく響く調子で客と応待する母の声が、きょうはひとつも外へ洩れて来ない。不自然な気分で、伸子は廊下一つへだてた食堂の一方だけあいているドアから入った。
 寂びた赤うるしで秋の柿の実を、鉄やいぶした錫《すず》で面白く朽ち葉をあらわした火鉢に鉄瓶がかかっていた。炭がきれいにいかったまま白くたっている。部屋の気配は、ここにもう長い間坐っているひとがなかったことを感じさせた。
 女中が出て来て、
「いらっしゃいまし」
 よそのお客へするとおりのお辞儀をして、お茶をいれた。
「お父様山形なんだって?」
「さあ……」
 伸子が名もはっきり知らないその女中は、主人のゆくさきを知らないのは自分の責任ではないという風に、からだをよじった。
「ゆうべ、お立ちになったことはなったんでしょう」
「はあ……」
「まあ、いいわ、ありがとう」
 畳の上に絨毯《じゅうたん》をしき、坐って使う大テーブルを中央に据えてあるその部屋は、半分が洋風で片隅に深紅色のタイルをはった煖炉がきってあった。その煖炉の左右は、佐々ごのみで、イギリス流の長椅子になっている。その上に、どてらが袖だたみのままおいてあった。それは父のどてらであった。
 伸子は、ハトロン包みの花をもって風呂場へ行った。洗面器へ水をはって、ハトロン紙につつまれているままのバラの花をそこへつけた。それから壁にとりつけてある鏡に向って、髪をかきつけた。
 単純なその動作を終ると、伸子はたちまち次には何をしていいのかわからないような、とりつき場のない当惑にとらわれた。越智が来ている客間へは、どうにも入っていけないものがある。保のための家庭教師、高等学校へ入る試験準備の間、指導してもらった若い教育者である越智圭一は、はじめのうちは佐々の家庭にとって、みんなに一様の越智さんであった。勉強するときのほか、越智は食堂で雑談したし、客間で画集を見たりしている越智のまわりに、保も稚いつや子も出入りしていた。
 保が東京高校へ入学したのは前年の春であった。その夏、若い越智夫婦が田舎にある佐々の家に暮し、伸子はあとからそのときの写真をみせられたことがあった。大柄の浴衣をきて、なめらかな髪を真中からわけて結び、やせがたで憂鬱な情熱っぽい純子という夫人が、白服できちんと立っている越智と並んでうつっていた。夫人のからだにあらわれている、しめっぽくて、はげしそうな表情も、越智の白い夏服の立襟をきちんとしめて、とりすましたような工合も伸子の気質の肌に合わなかった。普通にいえばよく似合っている縁無し眼鏡も、寸法どおりにきまって、ゆとりと味わいのない越智の顔の上にかかっていると、伸子は本能的に自分が感じている彼の人がらの、しんの冷たさや流動性の乏しさを照りかえしているように思うのだった。
 そのスナップ写真を伸子と顔をよせあうようにしてしげしげ眺めながら、多計代が、
「伸ちゃん、お前、純子さんてひとを、どう思うかい?」
ときいた。伸子は、そのとき、母の唐突な質問に困った。
「だって、わたし、このかたにまだ一遍も会っていもしないのに……」
「そりゃそうだけれども、この写真をみてさ。伸ちゃんは、どう感じるかって、いうのさ」
 伸子は、そういう多計代の詮索を、苦しく感じた。伸子は、恋愛の思いを知っていた。結婚した夫婦生活の明暗もある程度はわかっている。いまは女友達とひとり暮しをしているけれども、伸子は母のききかたに、女としての感情の底流れを感じ、それは成長した娘としての伸子の心に苦しいのであった。
「旦那さまが好きらしいし、ある意味で美人だし……問題はないじゃないの」
「問題になんかしているんじゃないけれど……」
 多計代は、ふっさりとして大きい、独特に古風な美しさのあるひさし髪を傾けて、なお写真をみていたが、
「純子さんて人は、おかしな人だねえ。時々ひどいヒステリーをおこすんだってさ。越智さんが出かけようとすると、出すまいとして玄関にはだしでとび下りて、格子に鍵をかけてしまったりするんだそうだよ。まるで気違いみたいになるときがあるんだって」
 誰から、どんな風に多計代はそういう話をきかされるのだろう。それを思うと、伸子は夫婦の間のそんな話や、越智と多計代とが純子についてそういう話をする情景そのものにいとわしさを感じた。
「自分の細君のことをそんな話しかたで話すなんて――お母様の趣味? そんなこと――」
 伸子は、肩でぶつかってゆくようにいった。多計代は黙った。そして、とりあげて見ていた写真を、テーブルの下にある手箱の中へしまいはじめた。
 一月ばかり前に伸子が来たとき、多計代は黒い瞳を機嫌よい亢奮でかがやかせながら、
「――越智さんは純粋な人だねえ」
といったことがあった。
「そうお?――どうして?」
 うたがわしそうな伸子のききかえしにこだわらず、多計代は、
「僕が、もし純子と結婚していなかったら、きっと奥さんに求婚したでしょう、だって――」
 そういう多計代のこだわりのない満足らしさが、伸子をおどろかした。
「だって――」
 じゃ、お父様はどうなるの? 伸子の心に声高くその反問が響いた。
「ありえないじゃないの……そんなこと!」
 まばたきがとまったような表情になった娘をちらりと見て多計代は、
「だからさ」
といい添えた。
「ただ、そうだったろう、というだけの話なのさ」
 けれども、越智のある厚かましさが伸子の胸に鋭く深くきり込まれた。多計代はそう感じていないらしいけれども、そんな越智の言葉は、母をほめているようで、ほんとは母も父も侮辱しているところがある。そういう、越智に対する伸子の否定的な感情は、越智にも反映していた。母娘の間で意見が合わないようなことがあるとき、多計代は、自分の感情に重ね合わした憎々しさで云った。
「越智さんだってこの間云っていたよ。伸子さんという人は、破壊のために破壊をする人だって――」
 そんなとき、伸子は唇のふちが白くなってゆくのが自分でわかったほど激しい嫌悪にとらわれた。
 客間のドアは、ぴったりしめられている。越智に対する伸子の批評に向ってしめられている。伸子は、そのハンドルにかける手をもっていない自分を感じるのであった。
 心のおき場がなくて、伸子は保の勉強部屋へあがって行った。
 二階の日あたりのよい畳廊下で赤いメリンスしぼりの蒲団をかけ、小さいつや子が、お志保さんに本をよんで貰っていた。背中をかがめて膝の上に支えた手の本をよんでいるお志保さんのうしろに伸子が現れると、
「ああ、お姉ちゃまが来たア」
 つや子が、いかにも、その変化をよろこぶように声をあげた。
 伸子は、つや子が病気だとは知らなかった。
「どうしたの? 又ゼーゼー?」
 末子のつや子には、喘息の持病があった。
「二三日前雨がふりましたでしょう? あのとき学校から、ぬれておかえりになったもんですから」
「なに読んでるの?」
「アラビアン・ナイトでございます」
 つや子は、左右にたらした短い編下げの頭をふるようにして、
「お姉ちゃまア」
と伸子を見あげた。
「ここへ坐って! あったかよ」
 伸子は、ふとんと同じメリンスしぼりのねまきを着ているつや子を半分自分の膝によりかからせた。
「つや子ちゃん、唐辛子、ぬいだんでしょう? だからゼーゼーになったんでしょう?」
 よわいつや子は冬から春にかけて、いつも赤い毛糸でこしらえた下着をきせられていた。つや子ちゃんの唐辛子は佐々の名物で、小学三年になったつや子はそれをきまりわるがった。
「僕、もう唐辛子きないでいいのよ、ずっと前ぬいだんですもの」
 兄たちばかりのなかに育って、つや子は僕、僕、といった。蒲団のまわりに、南京玉の箱や色紙がちらばっている。賑やかな日向の色どりの中につや子の稚い顔は蒼ぐろく小さかった。
「大きいお兄さまは? お留守?」
「うん」
「おかえりになりますでしょう。飯倉へ御電話かけましたから」
 お志保さんは、飯倉という響を何となし特別にいった。その伯父の家には冬子と小枝という従妹たちがいて、和一郎はよく泊りがけで行っているのであった。
「保ちゃんは? 御勉強?」
 つや子は、
「うん」
 自分が学校をやすんでいるつや子は声よりもよけいつよく合点して、首をすくめるようにした。
「ちょいと保ちゃん見て来るわ、そしたらまた遊びましょう、ね」
 同じ二階の北側に長四畳があり、そこが保の勉強部屋になっていた。襖をあけようとして、伸子は鴨居にはられている細長い紙に目をひかれた。鴨居の幅きっちりに切った白い紙にフランス風の線の細い書体をのばして Meditation と書かれている。伸子は、はっきりしないおどろきに心の全面をうたれて、その一つ一つの綴りを辿った。メディテーション。――瞑想――。こういう字が、保の部屋の入口にはられている。保が自分で書いてはって、その内にこもって勉強している。どういう意味なのだろう。不自然なこだわるもののある感じがした。高校の学生たちの生活、ものの考えかた、そして仲間同士の暮しかた。それは、保の貼紙の気分とはちがったものに想像されていた。活気と若々しい野望と意慾とがむら立って想像されていた。京大で社会科学研究会の学生が三十余名検挙されたりしている頃であった。伸子はそういう事件の意味はわからなかった、伸子の生活からも文学からもはなれたところにおこっていて、その意味のわからなさと激しさとで、伸子をいくらかおじさせていることなのであった。保の生活がそういう学生の動きとはちがっている。伸子はそれにたいして批評をもたなかった。けれども貼紙の文字は伸子の本性に抵抗を感じさせ気にかかるのであっ
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