た。
「保さん、いる? あけてもいい?」
伸子は、唐紙のひきて[#「ひきて」に傍点]に手をかけてきいた。
「ああ、姉さん? いらっしゃい」
保は、勉強机に向ってかけ、ひろげた帳面にフランス語の何かを書きうつしていた。北側の腰高窓があけはなされていて、樹木の茂った隣の奥ふかい庭が見おろせた。梢をひいらせている銀杏《いちょう》の若葉が、楓の芽立ちの柔らかさとまじりあって美しく眺められる。
「いつ来たの、僕ちっとも知らなかった」
保のまぶたはぽってりとしていて、もみ上げや鼻の下に初々しい和毛《にこげ》のかげがある。
「さっき来たばっかり」
伸子は、ちょっと黙っていて、
「お客なの知っているの?」
ときいた。
「ああ」
「おりて行けばいいのに……」
「――僕はこの間家へ行って会ったばかりだから別に話もない」
保は、おだやかにいって絣《かすり》の袷《あわせ》を着た大きい膝を椅子の上でゆすりながら隣の庭を眺めおろしていたが、
「姉さん、きょう泊って行くんでしょう」
ときいた。
「そう思って来たんだけれど……」
伸子のこころもちは、やがてどうきまるにしろ、今はとりつくはしを失っているのであった。
「じゃあ僕、これだけしてしまってもいい?」
保の勉強机の上には、学校での時間割のほかに、細かく一週間を区分した自分の勉強表がおいてあった。
「どうぞ……じゃあとでね」
自分のうしろに保の部屋の襖をしめてその部屋を出ながら、伸子は、広い佐々の家のなかに、自分が落ちつく場所というものは一つもなくなっていることを痛感した。
二
心と体の居場所がなくて、あちこちをふらついていた伸子は、漂いよったように古風な客間に入って来た。榧《かや》や楓、車輪梅などの植えこまれた庭は古びていて、あたりは市内と思われない閑寂さだった。竹垣のそとで、江田がホースを使っている水の音がきこえた。
くつぬぎ石、苔のついた飛石。その石と石との間に羊歯《しだ》の若葉がひろがっている。煤竹《すすたけ》の濡縁の前に、朴訥《ぼくとつ》な丸石の手洗鉢があり、美男かつらがからんで、そこにも艶々した新しい葉がふいている。茶室づくりの土庇を斜にかすめて黄櫨《はじ》の樹が屋根の方へ高くのびている。
庭下駄の上へ、白足袋の爪先を並べてのせて、伸子はやや荒れている客間の庭を眺めていた。
庭に一人向ってじっとしていると、伸子には、佐々の家も、この数年に、随分変って来たことがしみじみ感じられた。
変りかたは、眺めている客間の庭の様子にも反映していた。伸子が幼なかった頃の佐々の家は、家全体が茶室づくりに按配されていた。門からの入口も、台所へまわる細い道も、風雅につつましかった。それが、近頃自動車をおくようになってから、門からの細道は石だたみとなり、車庫の位置によって、台所への道がひろげられた。そのために、客間の庭の奥ゆきが何尺か削られた。もとは石燈籠と楓、松などの植えごみの裏に、人一人とおれるほどの砂利じきのゆとりがあって、ゆきとどいた庭のつくりであった。それは自動車の道のためにこわされた。植木屋がそれにつれて石燈籠を前の方へもち出してすえ直した。松の枝かげを失い、楓の下枝からむき出された燈籠に、納りをつけようと、無造作に青木が植えこまれていた。燈籠は、我からその位置を悲しむように、庭の真中へとび出て立っている。
伸子の父は、建築設計家であった。それだのに、どうして、こんな有様にしてしまって、みんながそれに無頓着で平気なのだろう。それは、この地味な八畳の土庇のついた室やそこの庭が、佐々夫婦のこの頃の生活気分から重要さと愛着とを失われていることを意味していると伸子は思った。
伸子が二十歳ごろ、まだこの家に娘として暮していた時分から、客室は次第に腰かける方がつかわれるようになった。水色と白の縞の壁紙がはられ、イギリス好みの出窓、その下につくりつけられた木の腰かけ。いかにも明治四十年代の初期に、その年代とおない年の日本の建築家であった父が、使える金のささやかな範囲で、自分の空想を実現したという工合の洋風客間は、柱も節のある質素なものであった。若葉の季節になると、出窓のビードロ玉のようなガラスが海の底にでもいるように新緑の色を映すので、伸子の少女の心はその美しさに奪われた。
パンヤ入りのクッションがところどころに置かれていたその室の調度は年とともに、いつしか変った。この節は佐々の陶器の蒐集棚が立ち、メディチの紋が象嵌《ぞうがん》してあるエックス・レッグスの椅子などが置かれている。第一次欧州大戦の後、日本の経済は膨脹して、全国に種々様々の大建築が行われた。丸の内の広場に面する左右の角に、東京で最初の鉄筋コンクリート高層建築が出来た。佐々と今津博士との協同で経営されていた設計事務所でそれらの設計はつくられ、完成した。
伸子が二十歳だったとき、父につれられてニューヨークへ行った。そのことには大きい背景として、そういう当時の日本の経済のふくらがりと、建築家として父の活動場面の拡大とがあったのであった。二十の伸子は、それらの複雑な関係について何も理解していなかった。自分としては、親の指図や干渉からはなれた暮しの中で、人間として育ちたい気持が一杯なだけであった。ニューヨークで、佃という東洋語を専攻していた人と結婚した。唐突だったその結婚も、伸子とすれば一人立ちになりたいという一貫したその希望からであった。伸子は、主としては母親が計画している「よいお似合い」の社交的結婚を心から恐怖した。伸子が真面目に思っている文学の仕事は、そういう結婚生活からは生れない。そのことは、女である伸子には本能的にわかった。同時に結婚しなければいつまでつづくかわからない「大きいお嬢様」の生活の苦痛ときまりわるさとは、十八歳からの二年間で、伸子は知りつくした。
伸子は一昨年から女友達の吉見素子と暮しはじめた。佃との結婚はこわれた。いますんでいるのは駒沢だけれども、結婚していた五年間、おそろしいもがきのつづいていた間、伸子が佃とすんでいた家から逃げ出して何日か、或は何ヵ月かを過したところは、育った佐々の家の中ばかりではなかった。佃とわかれ、作品をかき出してから、伸子が第一に自分の机をおいたのは、老松町の路地の奥にある、あるお裁縫やさんの二階であった。白い実のついた南天の根もとには、いつも小さい紙屑が散っているような小庭のかなたに、寺の松の枝が見えていた。毎朝早くから共同水道の水の音が響く界隈であった。そして、夜更けて帰る人の下駄の音が、どぶ板に響いた。伸子は、そこの茶の間で、よく、細君がやいてくれる土佐の目ざしをたべた。奥の八畳にお裁縫に通って来ている娘たちが五六人並んで針を運び、小声でおしゃべりしている。その二階で、伸子はほんとの生涯がこれから始まるこころもちで小説を書きつづけた。くたびれると、小夜着をかけて、火鉢のそばに横になった。そんなとき伸子のからだの下にしかれるメリンスのきれいな大座蒲団は、素子がくれたものであった。その二階へ、佃のところから伸子のもっていた本が送りこまれた。伸子は小説を書く収入で、素子はある団体の雑誌編輯をしてとる月給で、二人は共同の暮しをはじめたのであった。
この二三年の伸子の生活のうつりかわりは、外からもわかりやすい変化であった。ひとこま、ひとこま、生活の情景ははっきり推移した。その間佐々の家も、思えばずいぶん変ったものだ。しかし、その変化は、大きい屋台の中で、いつとなし、あれやこれやの細目が変って行って、気がついてみれば、全体が元とちがってしまっていることにおどろかれる、そういう変りかたなのであった。
佐々は健康で生活力の旺盛な、働きずきの男らしい恬淡《てんたん》さをもっていた。メディチの紋章のついた椅子も、珍重していながら、大切になでさすって、眺めるような味わいかたはしていなかった。伸子も来あわせてみんながその室でしゃべっているようなとき、泰造はちょっとその十五六世紀頃の椅子にかけてみたりした。
「昔の人間はよくこんな工合のわるい椅子で辛抱していたもんだね。これをみても進歩ということは大切ですよ」
そういいながら、どういう細工によってか、ひじかけの先の円くなっている手前にくるくるとまわるようにはめられている繊細な輪細工を、乾いた軽い音をたててまわして遊んだ。ときによると、
「お父様のハムレットを見せて上げよう、アーヴィングの直伝だよ」
どてらをぬいで片方の肩からななめにかけ、そのエックス・レッグスにかけて沈痛に片肱をつき額を抑えた。そして誰でも知っている“To be or not to be”というせりふをいった。丸まっちいからだの、禿げている頭の丸いハムレットが、紺の毛足袋の短い足を組みあわせ、血色のよい、髭のそりあとの見える東北人らしい顔を傾けて、To be or not to be と煩悶するのは、なんと滑稽なみものだったろう。伸子は手をうって笑った。
「オフェリアはいつ出て来るの? お父様、オフェリアを出してよ、わたし出るわよ」
と、ふざけた。
「あいにくだが、ここまでおそわったらアーヴィングのところへお客様が来ましたよ。オフェリアは出ずじまいさ」
「お父様ったら! でたらめばっかり!」
多計代が長椅子にかけて、おかしそうに更にそれよりもいら立たしそうに白い足袋の爪先を細かく動かしながら非難した。
「お父様ったら、なんでもかんでも茶化しておしまいになる」
悲壮な重々しい情熱を好む多計代には、ハムレットをそうやって遊ぶ泰造の気分や、それをよろこぶ娘の伸子の気分が、人生へのまじめな感情にそむいたものと感じられるのであった。
関東の大震災の後、復興のために自動車の輸入税が一時廃止された。
「買うならこういう機会だね」
遊びに行っていた伸子も、両親や弟たちに交って、いろいろの自動車会社から出されたカタログを見た。
「多計代のハイヤー代だけでも相当だし、俺はどんなに能率があがるかわからない……しかし、贅沢な車は駄目だよ。第一、門が入りゃしない」
伸子の知らない幾晩かの相談の末、イギリスのビインが買われた。小型の黒い地味なビインにふさわしく、小柄で律気な機械工出の運転手の江田が通いで雇われた。江田は一風ある男で、はじめて来たとき、お仕着せは絶対にことわった。佐々のお古を頂きたい、と約束した。そして、お下りのハンティングをかぶって、毎朝八時というと、小柄の体をひどく悠然と運んで通って来るのであった。
いま、竹垣のそとにホースをつかっている江田の姿を目にうかべ、伸子は、思わず一人笑いをした。父をなつかしむ笑いをもらした。泰造は米沢に生れて、イとエの発音がさかさになることがあった。字でかけばちゃんと書いたが、発音では逆になった。江田が運転手になったとき、佐々は伸子に、
「運転手が、いい男でよかった。イダっていうんだよ」
と教えた。伸子は井田というのだと思って、そうよんでいた。
そしたら、あるとき、
「これを井田におやり」
と伸子にわたした祝儀袋の上に江田殿と書いてあるのを発見した。
「あら! お父様、エダじゃないの」
「そうですよ、イダだよ」
「――……」
伸子は笑いくずれるように父の肩ごしに祝儀袋を見せた。
「これ、何ておよみになるの、お父様は……」
「イダさ」
これはしばらく佐々の家の一つ話になった。とんちんかんなことがおこると、
「ホラ、イダだ」
と笑った。
一つの家庭の歴史にとって、自動車が出来るということは、生活全体に深い影響があることだった。日本のように、どの家庭でも便利のためにフォード一台もっているのが普通というのでない国では、一台の自動車は、それがどんなに見栄えのしない小型のビインであろうとも、自家用車をもっていることであり、そのことは便利以上の何ごとかを、この社会で表現することなのであった。
江田をイダ君と呼び、どっさり車の集っている場所で、江田がききわけやすいようにと特別のサイレン風の小さい呼子をふきながら、佐々
前へ
次へ
全41ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング