は朝から夜までの活動の環をますますひろげて行った。
 毎朝佐々を事務所へ送りとどけてから、その車をうちまでかえしてよこして、それから多計代が外出した。外出さきから多計代を家まで送りとどけて、又その車は事務所へ戻った。自動車は珍しがられて、その一台が毎日多計代によっても使われていた。きょうは、今ごろの時間に、江田がのんびり車体の手入れをしている。江田にとっても、たまにはほしいのどかな午後の気分であろう。
 ひとりぼっち、客間の庭に不様《ぶざま》にされて忘られかけている石燈籠を眺めていると、この家の生活感情の推移が伸子の心にしみた。江田は律気な運転手の、古風な見栄のようなものをもっていた。あるとき長男の和一郎のことを、江田が若様といって伸子に話した。伸子は、自分の耳を信じかねた。この家に若様と呼ばれるようなものがいたのだろうか。伸子は、悲しそうに、江田さん、どうか和一郎さんと呼んでやって頂戴、あんまりみっともないからね、といった。そして、多計代にそのことを注意した。
「おや……そうだったかしら……」
 多計代はいくらかばつのわるい顔つきになって、まつ毛の美しい眼をしばたたいた。しかしそれぎりであった。江田のその呼びかたは続けられている。伸子はそれを知っている。
 その半面、生活の営みには、自動的なような刻薄なようなものが流れはじめていた。
 そういう家庭の推移のなかで、多計代の感情は越智に向って異常に傾きかかっているのである。
 沈んだ眼差しで、伸子が、杉苔の上にある西日の色を見ていると、もう戸のしまった車庫の角をまわって御用ききの自転車が通って行った。女中部屋の格子窓のところで下りて、小声で何かいっている若い男の声がした。すると、いきなり湧くようにイャーともキャーともきこえる女たちの嬌声がおこった。若衆は大人っぽいのど声で笑い、更に何かいって女たちを笑わした。笑い声は、自分たちだけの大っぴらな声であり、主婦なんぞは念頭にない声であり、呼ばれない限り無関心でいることがあたり前になっている生活の声であった。伸子は一層執拗に、杉苔の上へ目をすえた。

        三

 やがて豆腐屋のラッパが聞えはじめ、台所の出入りがしげくなった。父の祝いのためと思って買って来た黄色と白のバラの花を、伸子ははりあいの失われた気持でカット・グラスの花瓶にさし、それを父のどてらが置いてある煖炉前の小卓の上に飾った。
 保が二階から降りて来た。そして、立ったまま、伸子が一人だけいるその辺を見まわした。
「なあに? おなかがすいた?」
「そうでもないけど……」
 電燈の灯かげがそのガラスにきらめいてはいるが、午後じゅうぴたりとしまったままでいる客室のドアを、こっちの室の中から保が見ている。伸子は保の気持がわかるようでせつない思いがした。
「――もうすむでしょう」
 保は黙って視線をそらせ、煖炉前のバラの花を見た。いつもの保であったら、すぐよって行って、その花の品種だの咲きかたのよしあしを話すのに、今夜は遠くから立ったまま眺め、ただ、
「姉さんがもって来たの?」
ときいた。
「きょう、ほんとはお父様のお誕生日だったのよ。知っている?」
「うん」
 保はしばらく立ったままでいたが、また二階へあがって行った。
 食卓の準備がはじまった。それを見ている伸子の唇から思わずほとばしるような質問があった。
「二人だけ別? どうして? お母さまは?」
「奥様はお客様とあちらであがりますそうです」
「…………」
 やっと自分を抑えた声で伸子は女中に命じた。
「きょうは、お父様のお誕生日で駒沢から来たんだから、御一緒にたべられるまでお待ちしています、って。そう申上げて来て」
 狭い中廊下をこして、ドアをノックし、女中がはいって行った。そして、お辞儀をして出て来た。
「お待ちにならずに、とおっしゃいました」
 伸子は、涙がつき上げて来そうになった。
「すまないけれど、もう一ぺん行って頂戴。待っていますからって――」
 元気に階段を降りて来た保が、敷居ぎわで立ち止まった。大食卓の上に、向い合いに淋しく二人だけおかれている食器を見下しながら、歩調をかえて、のろい足どりで入って来て席についた。
「お母様と一緒にたべましょうよ、保さん」
 伸子はつよく訴えるように弟にいった。
「その方がいいわ」
「僕、どっちでもいい」
 保はこういう生れつきなのであった。
 女中が母の分を盆にのせて運んで来た。
「いらっしゃるって?」
「はい」
 おつゆが段々冷えていった。そのときになってやっと客室のドアがあいた。同時に、
「おや、こっちは冷えること……」
 ひとりごとのようにいう多計代の声がした。
 小紋の羽織の袖口を、胸の前でうち合わせるような様子で入って来た多計代を見て、伸子は圧倒される自分を感じた。皮膚の滑らかな多計代の顔は、ふっさりした庇髪の下に上気して匂うような艶をたたえている。いつもより、しばたたかれるまつ毛はひとしおこまやかで、多計代の大柄な全身から、においのいい熱気がかげろい立っているようにさえも見える。溢れるつややかさと乱れのまま多計代は娘と息子とが待っている食卓に来て坐った。
「お待ちどおさまだったね」
 そういったきりで、たべはじめた。さっさと、味わおうとせずにたべはじめた。自分がどんなに咲きいでているか、それを知らず、また、かくすことも知らず大輪の花のように咲き乱れている母。多計代の右手の指に泰造からおくられて愛用しているダイアモンドがきらめいていた。それは多計代の全体によく似合った。食卓は煌々《こうこう》と灯に照らされていて、多計代の手がこまかく動くごとに蒼く紫っぽく焔のような宝石のひらめきが走った。
 ほとんどくちをきかずに三人の食事が終った。越智のところから下げられた膳が廊下を台所へ運ばれて行った。
 多計代は、そこに保も伸子もいないような遠い目つきで、正面のドアの方を見ながら茶をのみかけていたが、急にそのまま湯呑みを食卓の上へおいて、洗面所の方へ立って行った。そのあとの空気の中になお熱っぽさと微かないい匂いとがのこった。その匂いをかぎしめるようにしていた保が、和毛のかげのある青年の顔を、伸子の方へゆるやかに向けて、
「お母様、なぜだろうね」
といった。
「越智さんが来るときっと洗面所へ行って白粉《おしろい》をつけるの」
 本当にいぶかしそうに、全く子供のようにそういった。伸子は瞬間何といっていいのかわからなくなった。母は知っているだろうか。彼女の秘蔵の保の、こんなこころを知っているのだろうか。
「保さんの部屋へゆきましょう、ね、いいでしょう」
 伸子は、母と保と二人へのいじらしさ、せつなさ、越智への嫌悪で、熱でも出る前のような悪寒を感じた。
 保が机に向ってかけ、伸子は、小さな折畳椅子をのばして机の横にかけた。保らしく、注意ぶかく電燈の位置が按配されていて、小さい紙が眼への直射をさえぎるように下げられている。見ると、机の上に自分だけの日課表があるだけでなく、うしろの本箱の上の鴨居に細長く紙がはってあって、それが、日課の進行表になっていた。青と赤との鉛筆で、それぞれ違った長さの横線がひかれている。
「保さん、どうしてこんなにキューキューやるの?」
 伸子は、少しあっけにとられてその表を見た。
「みんなこんなことしてやしないでしょう? この前来たときは無かったわね」
 丁寧に鉛筆のしん[#「しん」に傍点]を削りながら保が、
「僕、この頃時間を無駄にするのは下らないことだとつくづく思ったんだもの」
といった。
「それはそうだけれど……」
 伸子には保がこの家の生活の中にあって日々夜々感じているにちがいない複雑な心持、それに対する青年らしい批評のきびしさがわかるように思えた。保は、自分の暮しで、この家の中に、いいと思える暮しかたを作り出そうとしているらしかった。保の室の入口に書きつけられている Meditation という文句が、新しい意味で伸子のこころにせまった。教科書と園芸の本ばかりが詰っていた本箱に、今みれば「出家とその弟子」という戯曲がまじって背を見せている。Meditation ――伸子は、一層そのモットウに警戒を覚えた。
「あの本、どこにあった? 古い本だわ、わたしが昔よんだんだもの」
 その時分も評判ではあったが、感傷的な戯曲としてもまた有名であった。
「面白いと思う?」
「さあ――でも、僕わかるような気がするな。あの戯曲のいっているように、何ごとも許す心持って尊いと思う」
「ね、保さん」
 伸子は、つき動かされたように保の絣の筒袖に手を置いた。
「あなた、もっとお友達とどしどしおつき合いなさいよ。あなたのようなひとは問題をどっさりもっているにきまっているんだし、ここの家は問題をもっている家なんだもの――それでいいのよ。だからどんどん話して、議論して解決していらっしゃいよ。それでなくちゃいけないわ」
「うん……でも僕、あんまり何でもしゃべる奴きらいなんだ」
 伸子は、身をとがめられるような内省的な眼差しになった。伸子が佃と結婚したのは、保が麹町の方にあるフランス人経営の中学校へ入学する前後のことであった。それから、離婚するまでの数年間、佐々の家は「伸子の問題」を中心に議論の絶え間がなかった。少年の保のいるのを忘れて、母と娘は互いに涙をこぼしながらいい争ったことがあった。おとなしい灰水色の制服のカラーに金糸でオリーヴの葉飾りをぬいとりした服をつけた保が、
「姉ちゃん、どうして結婚なんて、したの?」
 結婚という言葉を、旅行とか病気とかいう事柄と同じような感じでいって、歎息したことがあった。もしかしたら、保は、多計代と伸子との一致点の見出せないいい合いに食傷して、何につけ議論したりすることの嫌いな若ものになったのではないだろうか。伸子は、保が、姉の生活態度のすべてに同意しているのではないことも改めて考えた。伸子が家を出てから佃が入院していたことがあった。そのとき、保が、一人で自分が咲かせた花をもって幾度か佃の見舞に行っていた。ずっとあとから、多計代からそのことをきかされた。
「わたしは保さんのような生れつきでないし、一緒にすんでいるのでもないから、心配したって保さんの役には立たないのかもしれないわ。でもね、……保さん、あなた本当に何でも話し合える友達、あるんでしょう?」
「沖本なんか、今でも時々会っているし、いろいろ話す」
「ああいう人じゃなくさ!」
 伸子は、もどかしげに力をこめて、大柄だがなで肩で、筋肉のやわらかい保の温和な顔を見た。沖本は中学時代の友人で、地方に病院長をしている父親は上京するごとに、保を招いて息子と帝国ホテルのグリルで御馳走をした。佐々夫婦と自分たち夫婦とが二人の息子を挾んで会食したりした。そういう雰囲気の交際であった。
「高等学校って、わたしがよけいそう思うのかもしれないけれど、一生つき合うようなしっかりした親友が出来る時代なんじゃないの」
「…………」
 保は、こまかいふきでものが少しある生え際を、まともに電燈に照らされながら、大きい絣の膝をゆすっていたが、やがて、
「僕のまわりにいる連中って、どうしてあんなに議論のための議論みたいなことばかりやっているのか、僕全く不思議だ」
 述懐するようにいった。
「だって――それゃそうなるわよ。一つの問題が片づかないうちにまた次々と問題はおこるんですもの……」
「そうじゃあないよ」
 独特のあどけない口調で否定した。
「ただ自分がものしりだっていうことや、沢山本をよんでいることを自慢するためにだけ議論するんだもの、皆をびっくりさせてやれ、というように、むずかしいことをいうだけなんだもの……」
「そうかしら……そういう人もあるだろうけれど……」
 伸子は椅子の背にもたれ、少しやぶにらみになったような視線で保をじっと見守っていた。そして、思い出した。それは、保が赤い毛糸の房のついた帽子をかぶって小学校へ通いはじめた、二年生ぐらいのことであった。多計代が、おどろいたように、崇拝するように
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