伸子の、どこか保に似て円い顔には、倦怠と憂鬱があらわれた。大体伸子は、遊戯に熱中できないたちだった。はじめのうちは気のりがしても、素子のように続かなかった。単純に遊ばず、お互のむしゃくしゃをぶつけあいながら争っているような竹村と素子との遊びかたは、よけいに伸子を疲らせた。
「もうやめだ、やめだ」
 勝てない竹村がそういって盤をたたんだとき、伸子は、
「それがいいわ」
 空虚にたえがたいという眼色になっていった。
「絵でも見た方がいい」
 すると、素子が、
「なんだい、えらそうに!」
 つよくマッチをすって、巻たばこに火をつけた。
「体裁屋!」
 竹村が帰って、卓の上をあと片づけしている伸子に視線をすえて、素子は、
「君は体裁屋だよ!」
 嘲りいどむようにいった。
「竹村なんかどう思ったっていいじゃないか」
「それはかまわないわ」
「じゃ、なぜあんなに、とりなそう、とりなそうとするんだ。私が不愉快がっているなら、勝手に不愉快がらしておいたらいいじゃないか」
「竹村さんが私たちの不愉快になるようなことをした? なにか」
「君に感じなくたって、わたしが不愉快を感じているんなら、それをたててくれていいじゃあないか。――自分ばかりいい子になろうとなんかしなくたっていいんだ、水臭い」
 とよ[#「とよ」に傍点]が台所で大根を刻んでいる、こまかくせわしいその庖丁の音をききながら、伸子は卓の上に頬杖をつき、こまかい雨の中にくれかかる夕暮の広い庭を見ていた。雨にぬれる雑草の中の萩の枝や遠くの生垣が、伸子の眼に浮ぶ薄い涙をとおしてよけい水っぽく見えている。
 これまでも、素子は二三度、なんだ、体裁屋! と罵って伸子を非難した。伸子は自分の性質に素子よりもよけいそういう俗っぽさがあるらしいということは理解出来た。ひとがどう思ったってかまわない。素子はほんとにそういう生活態度であった。伸子も、ひとの思惑を気づかって生きられないたちであった。けれども、伸子としては、ひとがどう思う、こう思う、ということのほかに、自分としてそれはいやなこと、ということがあった。そしてそれは、ひとがどう思う思わないにかかわらず、自分としていやなことなのであった。
 二人が一緒に生活しはじめて間もないころのことであった。素子のふるい友人で記者あがりの男が遊びに来た。そして、その時分から目立ったある婦人作家の女同士の生活の話などが出た。
「我々男性には大いに興味があるんですがね、一体、どういう風にやっているんだろうかと思って……」
 伸子は、
「どういう風にって?――」
 その男の、髭をはやしている瓜実顔《うりざねがお》を見た。
「この頃、そういう組合わせで女のひとが生活しはじめたの、やっぱりこれまでの女の生活がいろいろ疑問だからじゃないの。経済的にやれるようになって来たというところもあるでしょう」
「それゃ、わかるんですがね」
「じゃ、なにがわからないの」
「困るなあ」
 その男は秋田の訛《なまり》のある東京弁で、
「そうまともにきかれちゃあ、いいにくいが……どうもわからない」
 あとを独りごとめかして濁した。伸子は、もう若くないその男の半分真面目のような半分真面目でないような口元の表情や目くばりから、透明でない感じをうけた。女二人が仲がよくて、どうやっているのか。好奇心が、性的な意味に集中されていると伸子は感じた。それをいい出した男の有為転変的な生活のいく分を伸子は知っていた。いうひとのもっている空気とのつながりで、なにかえたいのしれないグロテスクなことが、その質問のかげに思惑されているように思えて、伸子は、そういう興味が向けられることを憎悪した。伸子とすれば、習俗に拘束されない、自由な女の生活を求めて、その可能をさがして、素子との暮しに入った。伸子が、もって生れた人なつこさや、孤独でいられない愛情の幅のなかで、素子にたより、甘え、生活の細目をリードされ、素子の風変りな感情にもある程度順応している。それが傍目に不自然に見られなければならないことだと、伸子には信じられなかった。
 二人が女であるという自然の条件と、女としての自然な自尊心からおのずと限界のある自分たちの感情の表現を、伸子は樹が風でそよぐようなものだと思った。鳥と鳥とが嘴をふれあうようなものだった。こういう男たちが誇張して想像しているようなあくどい生活は、自分にも素子にもなかった。伸子は、
「あなたがた男って妙ね。そして、いやだわ」
 おこった、上気した顔でいった。
「なぜ、きたならしいほうが気にいるの? 妙なほうがうれしいの?」
「いや決して、僕は、そういう意味でいったんじゃないんだが――」
「女の友達で、私たちにこんなことをいったひとはいなくてよ」
 伸子は、激しくそういった。すると素子が、かすれの伴ったもち前の声で皮肉に落ちついて、
「まあ心配してくれなくてもようござんすよ。わたしは、ともかく、男が女に惚れるように、女に惚れるんだから……」
「いや、どうも……何だか失敬なようなことになっちまって……」
 その話はそれぎりになった。
 素子が、伸子をはじめて体裁屋といったのは、そのときだった。
「なんだい、ぶこちゃん、どうして、夫婦のように暮しているのによけいな世話をやくなっていってやらないんだ、体裁屋!」
 しかし、伸子は、
「だって……」
 あの男のほのめかしたのは、どんなことだったのだろう。疑いをまだその目の底に湛えて、むしろ訴えるように素子を見あげながら、
「――ちがう……」
といった。
「だからさ。ああいう奴には、ざっぷり冷水をあびせてやるに限るんだよ。二人が暮している以上、いいたいことはいわしとく位の実意がなくてどうするのさ」
 三年前、文学上の先輩である楢崎佐保子のところで、伸子は偶然来あわせた吉見素子に紹介された。素子の小麦色のきめのこまかい棗形の顔や、上まぶたの弓なりに張った眼。縞の着物と羽織とを着て、帯や帯どめに小味な趣味を示していた素子は、日頃友人のすくない伸子に魅力を感じさせた。佃との生活が、破壊の一歩手前まで来ていた伸子には、佐保子から話された素子の一人ぐらしの生活ぶりも、女が主人となって暮している生活として印象ぶかく、羨しく思えた。伸子は、うちに落ちついていられなくなっている心を、単純に、せっかちに素子に繋いだ。散歩だとか小旅行だとかの習慣をもたない伸子は、素子に誘われて日比谷公園で鶴の噴水を見ながら実朝の和歌の話をしたりした。その歌の話から鎌倉へ遊びに行った。そういう時の素子は、女にこんなひとがあるかとおどろくほど主動的で、つれへのいたわりがゆきとどいて、伸子は楽しかった。実朝のうたの話をしていたとき、伸子はどうした拍子か為朝といいまちがえ、二三度そういってから自分で気がついた。
「あら、わたし為朝っていってやしなかったこと?」
 そういって伸子は顔をあかくした。
「どっちだっていいじゃありませんか、わかっているんだから……ちょっとごたついただけですよ」
 そういって素子は、伸子のばつの悪さを救った。
 伸子が、二度と佃の家へはかえらない決心をして、祖母が暮していた東北の田舎の家へ行った。そのとき、おっかけて楢崎佐保子からハガキが来た。吉見さんはそちらではありませんか。もしまだなら、見ていらっしゃい。今にきっと行くでしょう。そういう意味の文句がかかれていた。素子にひかれてゆく自分の感情の性質をしらべようとしていなかった伸子には、その文句のわけがよくわからなかった。なぜ吉見は、この田舎へ来るだろうと、わざわざ佐保子が予言するのか、そして、その予言にどういう意味がふくまれているのか。伸子は、佐保子にしては珍しいハガキと思って見ただけだった。楢崎佐保子は、素子が専門学校の生徒だった頃から知っているのであった。
 吉見素子は、佐保子の予言どおり、やがてその田舎の家へ来た。四五日一緒に伸子と暮した。五月で、夜どおしよしきり[#「よしきり」に傍点]が鳴いた。桐の花の咲いている田舎の家の日々は、佃との苦しい葛藤のうちに閉塞されていた二十六歳の伸子の、生活をよろこびたのしみたい慾望を開放した。単調な田舎の一日だのに、素子はおやつをたべるにしてもいろいろ変化をつけ、伸子はそんな場合、お客のようになった。そしてこういう暮しかたもあるかと珍しがった。
 素子が東京へかえり、やがて伸子も動坂へかえって、二人の間には一緒に生活する相談がもち上った。
「ぶこちゃんは、要するに、わたしを方便につかうのさ」
 その頃牛込に住んでいた素子は、下町風の家の二階で、そういった。
「そうかしら……わたしはそう思わないけれども――」
「思わなくったってそうなるさ。佃氏とはなれるのに、今のところわたしがいるのさ。よくわかってる。だから、一時の方便は、ごめんだっていうのさ」
「――わたしが、また誰かと結婚したいと思ってなんかいなくても?」
「――ぶこちゃんには、わたしの心もちなんかわからないんだ。わかりっこありゃしない」
 素子が、わからない、わからない、ということは、かえって伸子にそれがわからなければならないような感情をもたせた。
 素子と暮す話をきめてから、伸子は、二三日佃のところへ戻った。逃げたようなままで離別することは、伸子に心苦しかった。佃に会って、別れる結末をつけて、そして新しく素子と生活しはじめようと思った。けれども佃のところへ行ったら、伸子は又ほだされた。涙を流して生活のやり直しをしようとすすめる佃を拒絶しかねた。佃は、気をかえるためにと、それまで住んでいた家の、前のせまい通りをへだてた向い側の新しい二階家に引越しかけていた。伸子は、自分がそこにこれから住もうとは思わなかったが、佃にたいする最後の思いやりとして、その引越しを手伝った。引越しが終った日の夕方素子の家をたずねた伸子は、
「ああ、さわぎだった! 引越したの」
といいながら、坐った。
「引越し? だれが」
「わたしたちの家」
 素子は、坐り直し、その二つの視線で伸子の顔をハッシとうつようにけわしく、
「だから、この間、いったでしょう。君に私の気持なんてわかりっこないんだ。馬鹿馬鹿しい!」
 眼に涙を浮べた素子は、
「だから女なんていやだ!」
 侮蔑と痛苦とをこめた声でいった。
 素子の苦痛は伸子を畏縮させた。けれども、伸子のこころもちは、ぼうっと広く開いたままで、素子の切迫した激情の焦点に一致するようにしぼりが縮まなかった。そのことに気づいて伸子は一層素子にたいして気がひけた。
「君はよかれあしかれごく自然なひとさ。自然なだけ、ひどいめに会うのは私にきまってるんだ」
 素子は伸子の方を見ないまま、
「いつだったか、いったろう? 私は、男が女を愛すように女を愛すたちだって。――あのとき、ぶこちゃんは、わかったようにあいづちうってたけれど、実際には、いまだってわかってなんかいやしないのさ。わからないのが、佐々伸子さ」
 涙の粒が、素子の小麦色の頬をあとからあとからころがり落ちた。
「私に、ぶこちゃんの自然さがわかるのが、百年目だ」
 伸子も泣いた。素子の苦しさがせつなく、自分が素子をそんなにせつない思いにさせた、それが苦しくて。――素子の手を自分の頬にもち添えて泣きながら、伸子は、それでもやっぱり自分の心が素子と同じ皿の上の同じ焔とはなっていないのを感じた。素子に誠実であろうとしている自分の心の偽わりなさは伸子にわかった。素子にもそれは通じている。それもわかった。しかし素子は、女はだからいやだ、とそんなに苦しむ。そのいやさを、伸子は自分の感情として自分に実感することが出来なかった。どっさりの黒い髪を頸の上につかね、小麦肌色の顔を苦しさに蒼ずまして伸子に向っておこる。その素子にわるい、と思う気もちばかりつよく感じられるのであった。
 素子と伸子との感情生活は、独特な一つのかたちであった。素子にたいして、誠実であろうとする伸子の一般的なこころもちと、素子に、つよく意識されている伸子への傾注。それを理解し、自分たちの愛として素子のその心を傷つ
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